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「無言日記」、あるいは時を超える建設の道
文=藤原徹平

ある質

振り返ってみると、やはり2001年9月11日が分水嶺なのかもしれない。
NYの超高層ビルに、飛行機が突き刺さって爆発した時からずっと、現実は、大事なネジがいくつか外れてしまったかのように、ギクシャクしている。

あの時以来、バランスの欠いたこの世界では、毎日世界で起きる出来事のほうが映画よりもずっと寓話的である。

オリンピックは、コロナウイルスの変種が世界中で大流行したあげく延期された。
アメリカの大統領には、スピルバーグがかつてコメディのモデルにしたおバカなお金持ちが就任し、そして去っていった。
世界中で繰り広げられる政治ショーや経済ショーは、ドラマよりも展開が滑稽で、出来が悪い。世界はギクシャクし続け、言いようのない倦怠感が、私たちを取り巻いている。

しかし、そうした表層のドタバタをどうにかして忘却し、眼を凝らし、耳を澄ませてみれば、この世界には、私たちが生きているのだということに信頼と希望が持てるような「ある質」が存在している。

この「ある質」は、建設する(Building)ということに関わるものだ。
建設する、というのは人間ならば無意識に誰もが関わっている行為である。
建築物をつくるとか、土木物をつくるという狭義の意味ではなく、誰もが、生きることで、建設に関わっている。

たゆまない、時を超えた、構築の歴史。
その構築の歴史を、良きものとして、つむいでいく存在、そうした質が確かに存在している。

このことを最初に明確に指摘したのは、クリストファー・アレグザンダーだ。
彼が言うように、この「ある質」には名前がつけられていない。しかし、みなが信頼し、そういうことならば参加してもよいなと思えるような質が、確かに存在する。

私たちは、そのような質にどのように関わっているのか。
答えは、大変にシンプルで、毎日の習慣が鍵になる。

私たちは、毎日、朝起きてから寝るまでに、多数の習慣を反復することで生きている。
そうした小さな出来事の連鎖が、気が遠くなるほど束になることで、世界は建設されてきた。

自身の習慣を書き出していくと、多くの人は、その少なさや大したことをしていないことにがっかりするだろう。最近は、時代が進むごとに、習慣の種類が少なくなるだけでなく、習慣の質も悪くなっているようだ。

例えば最近は、新聞をキオスクで買う人は随分減ったし、煙草を吸う人も減った。
あるいはそもそも新聞すら読まない。
そうなると、街角のタバコ屋、なんていうものは必要なくなるだろう。タバコ屋で、新聞と煙草を買い、珈琲を飲みながら会話するなんていう風景も、同時にこの世界から消えていく。

習慣が減ることで、風景がどんどんと減っていくし、風景に出会うことで生れる習慣も無くなっていく。

私が20代の前半だったころ、つまり今から20年ぐらい前の私は、毎週、異国から届いた物語をスクリーンで観るために、映画館に通うというような習慣を持っていた。映画を観るために映画館に通うということは、大げさに言うと、他者の人生に出会いに行くという習慣だった。世界に生きる無数の人間たちの生き様に対して、想いを巡らせ、足を運び、眼を凝らし、耳を傾け、一緒に怒ったり泣いたり笑ったり考えたりするということだった。

単に映画を観るというだけでなくて、その映画について言葉を書き起したり、それを信頼できる知人や恩師にメールで送っていたりもした。

こうした習慣は、私だけのものではなくて、多くの人のこうした映画や映画館をめぐる習慣が束になることで、映画館というものが成り立っていた。

しかし、2001年9月11日の事件が突きつけたのは、出来事がつくる束によって、実は大きな歪みも作られていたのだという現実だった。私たちは他者の声に耳を傾けていたような気でいて、都合の良い寓話的な物語を体験し、ハリボテとしての世界を作っていた。

街角で飲んでいた珈琲の豆が、どこで採れて、誰がつくって、一体いくらで買いたたかれたものなのか、それを想像することができていなかったのである。

珈琲豆の農園の村にある現実と、珈琲を飲んでいるわれわれの現実とが交わり、世界を建設するような、「ある質」に向かっていくことは可能なのだろうか。

寓話性とはフレームであることを知ってしまった。
2001年以降、私たちはフレームの内側をそう簡単に信じるわけにはいかないのだ。


無言であること、積み重ねること

三宅唱という映画監督は、建設すること、に興味がある人間である。

「無言日記」という映画において、彼は別に依頼があるわけではないのに、日常にカメラを向けた。無言日記というタイトルが示すように、セリフはない。ナレーションもない。音楽もない。日記のように日常の出来事が連なることで、時間の流れを経験する。

「無言日記」には、出来事といっても、本当に些細なことばかりが映っている。路面電車に乗る。猫が歩く。太陽が昇る。風が吹く。雨が降る。水が流れる。横断歩道の音。

そもそもに出来事にも形があり、空間にも形があり、風景にも形があるはずなのに、無言日記において三宅のカメラは、事物そのものにピントを合わせない。
映す対象が些細なものというだけでなく、出来事や空間や風景の輪郭、はしっこ、移ろいを追いかけていく。だから、「無言日記」を観る私たちの眼は、形を探して、画面の上を彷徨う。

毎日世界で起きる出来事のほうが、映画よりもずっと寓話的であるというこの現実において、多くの人は、より寓話的な物語を生み出さねばと躍起になっている。寓話の大安売り、寓話の大洪水という現実の状況である。

「無言日記」は、その逆で、全く寓話性がないばかりか、アンチクライマックスである。それはテーマ性を核に現実をあぶりだすドキュメンタリーとは異質なものであるし、日常を寓話的に切り取るソーシャルメディアとも異質なものである。

しかし、「無言日記」はずっと観ることができる。なぜなら、時々とても映画的な感動があるのだ。どんな感動かと言うと、再会の喜びと悲しみ、それから現実の再発見と未来への展望である。

「無言日記」には、しばしば、かつて存在し、今は存在しない世界の片隅の姿が映り込む。
何気ない風景だが、その場所を経験したことがある人からすると特別な風景である。
瞬間なので、見間違いの場合もあるかもしれないが、見知った場所を観たような感覚がふいに立ち上がるのだ。
それは、わたしたちの習慣がかつて建設した、「ある質」が映っている奇跡の映像である。
わあ、久しぶり!というような、何かに再会したような、嬉しさがこみあげてくる。そして、それが失われたことの悲しさも湧いてくる。その風景を生み出し、味わうような習慣を、共に反復した人が、今はいないということの実感を通じて、時間の層が姿を現してくる。失われたのは、ある質なのか、世界なのか、人なのか。

また、「無言日記」には、未来をまだ信じることができそうな、そんな瞬間が映り込む。
それも大げさなシーンではない。
ある日の、習慣と習慣ではない事物の交差がつくった魅力的な偶然の状況。
毎日の世界で反復される、私たちの世界のリアルな姿。ふいに映り込む、なんだかいいなあ、みんな生きてるんだなあ、というそんな風景によって、建設することに関わる「ある質」は、まだわれわれの現実の中に存在していることを再発見させてくれる。

ともかく「無言日記」では、映っているものが確かに存在していた、という強烈な感触がある。

ある風景の中での独特の行動・ふるまいを、仮に「演技」と呼ぶのだとすると、「無言日記」には「確かな演技」が映っていると言ってもよい。役者は人間とは限らず、動物や建築物や地形や天候など、多種多様である。

その「演技」は、間違いなく世界を建設している。

世界を建設することに関わるような「ある質」は、無くなったわけではない。
「ある質」はわれわれの意識のフレームの外側にあるのだ。あらゆることが寓話的に意図され、意識下に置かれようとするこの世界において、意図と意識にまみれたカメラでは、そういった質は捉えにくいのだ。

「無言日記」は、映画を寓話性の縛りから解放し、世界の建設に関わる技へと導くのである。


三宅唱監督『無言日記』2014〜2016を見る https://vimeo.com/ondemand/mugonnikki

藤原徹平
建築家。フジワラテッペイアーキテクツラボ主宰。横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。著書に『7inchProject〈#01〉』、『やわらかい建築の発想 未来の建築家になるための39の答え』(共著)など。三宅唱監督がゲストアーティストとして参加する横浜国立大学のオンラインプログラム「都市と芸術の応答体」のディレクターを平倉圭氏とともに務める。

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