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無言じゃない日記 2014~2016

「無言日記」が1年分に編集される前、WEBマガジン「boidマガジン」での連載時にはひと月ごとに映像に三宅監督が書いたテキストが添えられることがあります。そこには「無言日記」を撮影・編集する間に考えたことや心を動かされたもの、「無言日記」では映さなかったこと・映らなかったこと、時には「無言日記」とはあまり関係のないことも記されています。ここでは、今回年間版が配信される2014、15、16年に書かれたテキストの一部を抜粋。各年に書かれた文章を読んだあとでもう一度「無言日記」を見ると、また違った見え方になるかもしれません。(文:三宅唱/構成:黒岩幹子)

2014年

SIMILABのセカンドアルバム『Mind Over Matter』の特典DVDが面白かった。LIVE映像のみならず、ツアー遠征の途中や、アルバム製作中のメンバーが記録されている、とても親密なビデオだ。そこには、猥雑で退屈でテキトウでろくでもない、一言でいうとただただ貴重な時間が映っていて、身悶えした。ちょっと引くくらい丁寧に記録されていて、リスペクトしてもしきれない。
みてすぐに、やっぱりおれもビデオカメラが欲しい!と思った。これまで一度もビデオカメラを買ったことがない。そもそも日常的に写真を撮る習慣すらまったくない。
しかし去年あたりから、なんとなく気分的に、気軽にビデオを回したいと思っていた。正確にいうと、回しといたほうがなんとなくいいかも、というかんじ。面倒だけど。
今年の年明けから、ひとまずiPhoneで、なるべくテキトウなときにまったく無理せず、気の赴くままに撮影をしてみた。1月に香港とドイツの映画祭にいき、2月には短篇の撮影や高松で映画祭があり、3月はまた新作の撮影があって、そのときやらその合間やら、仕事したり遊んでいる間にちょこまかと撮ったり、うっかり撮り忘れたりした。一番愉しい瞬間にはカメラなど出さないし、面倒なときもわざわざ撮らない。みなおしてみると、女性、こども、動物、動くもの……くらいしか映ってなかった。天気とか。

もともと運命とか占いとかそういった考え方に興味があるほうだが、撮ったあとにはよく、運とか不運ってなんなんだろうな、と思う。いいかんじに人が行き交ったり、行き交わなかったり。事前の意図や期待に対する結果との擦り合わせの時間に、運、という言葉が出てくる。「運試し日記」とか「運任せ日記」というタイトルも考えたが、そんなタイトルにしなくてよかった。なるべくそんな考えから離れて撮りたいと思っている。

家で仕事をする生活をしていると、脚本や原稿なら気晴らしに喫茶店でも公園でもやれるのだが、映像編集は自室PC前に縛られる。それにあまり連絡も用事も現場もない日が続くと、生活時間が地球の裏側の国の人みたいになっていく。斜め前にあるパン屋では朝3時頃から仕込みをはじめていて、いつも感心する。明け方、寝る前最後の一仕事の前に一服しようと外に出ると、近所のどこかから目覚ましアラームの音が複数きこえたりする。「無言日記」を撮っている間はタイトル通り無言なので、普段よりも音がよく聞こえる気がする。また、寝起きの一服で外に出るとたいてい夕日が美しく、これは撮影しておこうといったん家に戻ってiPhoneを手に外に出るともう光の様子が変わっていたりする。わりとあっという間に暗くなる。

カップルの映画で街が映らないなんて考えられない。カップルを撮れば街が映るわけではないだろうが、カップルを通してみえてくる街、街を通してみえてくるカップルというのは非常にイメージしやすい。カップルといえば、今回の「無言日記」にあるバウスシアターの正面から撮ったカット、なんの芸もなくふつうに撮っちゃったなと思っていたカットだったが、編集時に、ある若いカップルの挙動がたまたま映っていることに気付いた。もしいずれ若いカップルを演出する機会があったら、かれらを完コピしたいくらいなかなかいい瞬間だと思った。かれらは最後のバウスでなにか見るだろうか、と勝手に想像させてもらった。

今月、東北の酪農地帯に行く機会があり、コンピューター制御の牛舎というのをはじめてみたのだが、西部劇のカウボーイたちの風景に較べるまでもなく、あらゆる設備の近未来SF度がはんぱなかった。
そこでお会いした方(酪農家/60歳くらい)が、ふとした会話のおりに、めちゃくちゃ陽気なノリで「いやあ、だれも全体の仕組みをよくわかってないってのが現代だよなあ!」と言っていて、いま文字にするとちょっと陳腐だし、新しいフレーズでもないのだが、その場ではとても撃たれた感があった。

ジャド・アパトーの監督作である『40歳の童貞男』『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』『素敵な人生の終り方』『40歳からの家族ケーカク』をまとめて観た。監督の妻であるレスリー・マンがすべてに出演していて、また二人の娘たちも『無ケーカク~』以降の3本、とくに最新作『~家族ケーカク』では中心的な役として出演している。かなり面白い。妻子総出演なんだからこれはある種のホームビデオで、しかもまったくの他人がみても強烈に面白いホームビデオだ。まあ、数十億の予算の映画にホームビデオなんて言うのもおかしいが。
そして、理由は省くが、ジャド・アパトーは今やるべきことをやりたいこととして(やりたいことをやるべきこととして?)やり続けていると直感的に思った。特に『素敵な~』は好きな映画になった。コメディアン同士が自分のネタ帳をみながら披露しあう姿なんか、ラッパーがメモ帳に淡々とリリック書いている姿にも似ているし、ようするにそこに仕事、生活、人生があるというように感じた。そして、おれも脚本をだれかと一緒にしゃべりながら書こう、と思った。

1~3月分が9分17秒。
4月分が6分48秒。
5月分が9分47秒。
6月分が6分12秒。
7月分が5分29秒。
8月分が5分38秒。
合計43分11秒。
残り4ヶ月でたぶん合計23分くらいになるはずだから、今年2014年分として66分くらいになるのか。計算すると、一年で518400分のうち518334分は映ってないビデオができあがる。518400分のうち66分が映っているビデオができあがる、とも言える。
まあこういう算数に負けないために、こういうビデオをつくっているとも言える。よくわかんないけど、そういうかんじ。

「無言日記」を作り始めた年明けの頃、渋谷駅の地下網の工事が続いていて(今もだっけ)、なんとなくそこにサイバーっぽいものを感じ、その他諸々昨今の世情を考えて妄想が広がるにつれ、「ようし、無言日記はSF映画だ!」と思った。最近ずっと忘れていたが、それを思い出した。
地下のクラブやライブハウスにいるときはたまに「外はもう既に絶滅した世界で、のこされた人間たちは外にも出られずこの地下でこうしてずっと遊んでいる」という設定を考えて楽しんでいる。ベタな設定ですみません。でも、なんかすっとハマるかんじがある。
ここ数年のそうした奇妙なリアリティを感じる光景や、自分の「気分」に対して、SFと呼ぶのではなくて、なんか別の名称がほしいのだが。

かつて映画のメイキング班をやったとき、「撮り逃す」ということがあまりに精神的に辛くて、自分にはドキュメンタリー的な資質感性技術がまったくないとトラウマレベルで思っていたのだけれど、「無言日記」を続けていると、これはもうそもそも全部撮るなどまったく不可能なわけで、となると、撮らないよりマシ、映っているだけマシという気分になり、以前に較べるとだいぶ気持ちがラクになったなあ、とさっき今月分を編集しながら思った(でもメイキングとこれを較べちゃいけないな)。

「無言日記」の音に関して。自分の耳とiPhoneが拾う音はかなり違うようで(画は撮影時に画面でみているが、音はイヤホンで確認していない)、どういう音が録れているのか確認するのも編集時のたのしみのひとつだったりする。ところどころ、よくわからない音がきこえているような気がする。

2014年は「無言日記」をほぼ毎日撮影するのと並行して、『THE COCKPIT』という映画をつくっていました。
『THE COCKPIT』。これは一言でいうとラッパーたちのドキュメンタリーで、OMSB(SIMI LAB)やBIM(THE OTOGIBANASHI’S)らに出てもらいました。かれらがアパートの一室に集まり、レコードをきき、ビートをつくり、寝て、遊び、リリックを書き、ラップをして1曲つくりあげるまでの、かれらのやりとりというか、その時間を撮りました。
撮影素材を数ヶ月ほぼ毎日みて、びっくりするほどまったく飽きず、完成したあとももう何度もみています。

2015年

一昨年の2013年は『地上最後の刑事』という小説が面白かった。半年後、地球に巨大隕石が衝突することが判明し、世界中がてんやわんやになっているなか、アメリカの地方都市で働くある刑事が捜査中、「これ自殺じゃなくて他殺かも?」と疑問をもつ。周囲は、そんな事件調べてなんになるの、地球終わるのに、ばか、と相手にしない。にもかかわらず刑事は仕事を全うしようとする、みたいな話。とにかく仕事しまくり。他人事に首つっこみまくり。めちゃ真面目。
で、『地上最後の刑事』は3部作の1作目ということで、2作目の翻訳を待っていたら、昨年2014年11月に出た。
読み始めると、惑星は地球に近づいていて、衝突まであと2か月ちょっと(前作より数か月ほど進んでいる)。主人公は刑事をクビになっていて(もう事件を捜査する余裕が行政にないため人員削減された)、今度はただの一小市民としての探偵行。前作よりはるかに「で、いったいなんでおまえはそんなことするの?」度が強い。ほんと仕事しまくり。他人事に首つっこみまくり。なんでそうするのか、わけがわからない。で、めちゃめちゃ面白くて感動した。サントラ的に、OMSB『OMBS』と、Hair Stylistics『Die! Rotten Prime Minister』と、D’Angelo『BLACK MESSIAH』をループさせながら読んだ。
そして、いやまるで脈絡ないけど、年始に宇宙飛行士の若田さんのインタビュー番組をみて、この人めちゃめちゃかっこいいよなあと改めて思い(ちょいお茶目感のある知性つうか)、ちょうど今日『アポロ13』をみなおした。5年生の夏休みに映画館でみて、宇宙やばいと震え、なぜかゲイリー・シニーズに感情移入しまくり(直前でアポロに搭乗できなかった人)、その日の晩から宇宙飛行士になるための勉強を開始した映画(※中1の冬休み前に、数学がもうすでに手に負えないことに気づいて挫折した。クラスに3人くらい天才的な理系脳がいてこれは適わんと思った)。みなおしてみて、これはそりゃ憧れるよおれ、と改めて大感動した。スーパーウルトラ頭のよい連中がとにかく連日クソ真剣に仕事を続ける、という姿。みんなで検算するところとか、□のフィルターと○のフィルターのダクトを、あるものだけで組み合わせて繋げるところとか。やっぱり映画の醍醐味ってこういう知恵と手仕事だよな、と思った(とくに宇宙映画では)。あと、エド・ハリスな。地上の管制官側が面白すぎる。
で、ようするになにを書き留めておきたいかいうと、年末年始にかけて、よくわからないけどとにかく仕事(or作業)してる人っていいよなあ、とシンプルに感動したということで、おれもがんばろう、もしくは、せめて人の邪魔はしないようにしよう、と改めて思った次第。ついでに、でもないけど、『THE COCKPIT』という、えんえんと手および口を動かして仕事をし続ける男たちを撮った映画も、2015年にいずれあちこちで上映するので、ぜひみてほしいです。コクピットってタイトルつけてよかったと『アポロ13』みなおして自己満足。

これからどうしようということで、まだ態度決定できてないが、「無言日記」は「無様日記」(by鍵和田くん)であるべきだから、こんな小さなものでもいろいろ考えてしまうけど(たとえば近所を散歩すると東京ジャーミイのモスクがあって、めちゃかっこいい建築なんだけど、ふと撮る撮らないをその場で考えたりしてしまうわけで、そう一瞬でも考えてしまうだけでなんかもう違うから撮らないけど、もうそういうのほんとにイヤだという)、とにかく今後なるべく無様でありたい。でも無様を狙うのも違うな。なにやっても無様だから、ということでいい、ということか。言い換えればなにを考えても無駄なのだ、というか。無駄日記なのか……。まあ考えないとなると、もっと、動物とか、ルンバ(掃除機のあれ)みたいに、条件反射的に撮ったり撮らなかったりするだけでOK、ということでやっぱりいいかもしれない。そうしよう。動物機械宣言。そうだ、もともとそのつもりだったんだ。ということで改めてやっぱり、ひとまず今後もこれで。しかし、動物も機械も宣言とかしないのか……。撮らないときは撮らない。でヨシとすればいいだけかもしれない。

昨日、スクリーンで『無言日記/201466』を通しではじめてみた。
笑いながらみていたけど(多くのくすくす笑いや満点大笑いがあってそれがとても楽しく、そういう意味でもひとりで家でみるのとは大違いだった)、ふと気づいたら夏が終わって秋に入ったあたりで、一年があっという間におわってしまうぞこれは!! と思った。「人生なんてそんなもんだよ」とだれかに言われたが、そんなことわかってるよと思いつつ、そんなふうに醒めて思うにはまだはやいというか、はええー!やべえー!と面白がってるほうがいまの気分だ。

OMSBのニューアルバム『Think Good』が5月2日に発売される。
『Think Good』が彼のセカンドアルバムのタイトルだと知ったときは、「ああ、とてもいいフレーズをみつけたなあ」と思ったのだけど、実際に曲を耳にしてみると、「みつけた」というよりも、自らそこに「たどりついた」、「たぐりよせた」、あるいは「新たにつくりだした」フレーズなのだということを悟った。それがストレートに伝わってきて、ものすごく感動した。
リリックを確認して、Think Goodという「態度」に至るまでに通った道のりをいろいろと想像した。とはいえ、その道のりについての語りがえんえんと長く続いてズシリとくるというタイプの曲ではないと感じた。序盤でさっと切り替わる。そして最高に気持ち良いところにクリアーに抜けていく。ものすごくポジティブな気分になる。たまらない。
余計ながら映画にたとえてみたりすると、ある事件の終わりや心情の変化の結論に至るまでの「過程の長さ」で勝負する映画もあるけれど、そうではなく、事件のあとの一歩一歩を具体的に生々しく生きる姿をみせる、事件のあとから映画が始まる、というかんじ。それこそリアルだし、気持ちがいい。過程を捨てるのは勇気がいるが、まあ捨ててしまっても死ぬわけでもないし、誰が困るわけでもない。そんな執着よりも次へ、というようなベクトルの強さに後押しされるようで、元気が出る。「R.I.P.昔の俺」。

4月頭に、樋口さんや湯浅さんらと一緒にアメリカにいった。iPhoneでいろいろ撮影する係として、連れていってもらった。
アメリカにいった、といってもちょうど36時間くらいの滞在。
今月の無言日記はいつもより長い。そのうち大半がこの36時間の映像で、時間感覚むちゃくちゃじゃないかというモノになっている。
ただ、たとえばモンテ・ヘルマン監督の家で朝起きて、近所をすこし散歩した数十分の時間とか、ニール・ヤングさんに会ったスタジオにいた60分ちょっとの時間とかが、自分の体にこびりついている。

『THE COCKPIT』みるとやる気でるよ、みたいなことを宣伝として自分で言ったし書いたし、みた友人たちからも、仕事たのしくやりたいとふつうに思ったとか、会社もうやめようと思ったとか、とにかうポジティブな言葉をもらって、だよねこの映画!と思いながら、最近は自分自身がやるべき仕事にまるで集中できておらず、非常にまずい。言行不一致。ということに気づいても、面倒臭がりなので基本的に自分自身を放っておくタイプ(無理なときは無理だし)。やっと数日前からようやく、ほんのちょっとずつ、手が動くようになってきた。と書いて、自分に暗示をかける。

今月末は山口へ。バスター・キートン『ハード・ラック』の上映に(ちなみに、キートンならなんでもよかったが、タイトルでこれだ!と決めた)、OMSBとHi’Specがビートで伴奏をつける、というプログラムがある。こないだ2回、リハをした。予想通り、そして予想以上に、面白いものになるとおもう。初日は、音をつけるという行為だけで可笑しくなってしまって、このまま小学生に戻るんじゃないかというくらい笑った。2回目は、もうすこしシリアスに構成を分析しながら検討した。ふたりとも、こんなこというのも失礼な才能の持ち主だが、めちゃくちゃ勘がいい。伴奏ははじめての経験で、そしてキートンもサイレント映画もはじめて観たというが、だからこそなのか、映像と音のあいだに生まれるものにものすごく敏感だ。ただおれは、ふたりを後ろから観ているだけ。ごくたまに、おれにはいまこうみえる/きこえる、という感想だけを伝える。
映画をつくっているわけではないが、まさしく映画づくりと同じ作業になっている。こんなに面白いことはない。

金刀比羅宮とは、「こんぴらさん」とも呼ばれる香川の神社。いつできたのかというと、Wikipediaや公式サイトをざっと読んだ理解では、江戸時代の書物には「すでに三千年ちかいの歴史がある」というようなことも書かれているらしい。1165年には宗徳天皇を合祀する、という史実も。よくわからないが、気が遠くなるかんじ。
そんな場所に、およそ10年前の2004年、建築家・鈴木了二さんが新たに手を入れている。既存の建物の移設や新たな建築などを含む「金刀比羅宮プロジェクト」がそれ。想像するだけで気が遠くなりそうな、バカでかい仕事だ。2013年には全長96メートルの橋も新たにつくられている。
了二さんと一緒に現地を一歩一歩あるき、いろいろと案内してもらいながら(こんなスペシャルな経験はそうできない)、数時間かけて観てまわった。
了二さんに「この新しい建物はいつまで残るのか」と尋ねると、500年は残る、とのこと。コンクリートはそんなに持たないから、基本的に鉄鋼か木材か石が使われている……まあ建築の言葉をよく知らないから詳しくかけないのがもどかしいが。
了二さんが「まあ人類は滅亡するわけですから。絶対に」と言ったことが忘れられない。知っている人はわかると思うが、これをさも神妙に言う人ではまるでない。聞いている人が思わず声をあげて笑ってしまうようなタイミングとフローで、こういう言葉をいうのが鈴木了二という人だ。「建築家がこういうこと言っちゃあいけないってわかってるんだけどねえ」と笑いながら言う。「クライアント、建てる気なくしちゃうもんね!」と。

前にも書いた気がするが、10年続けるつもりだ。
1年のDVD×10枚として、1セット1万円。
1000セット売れれば、1千万円になる。
10000セット売れれば…超ウハウハである。これまでお世話になったいろんな人にお礼したりしても、残ったお金で劇映画が十分つくれそうだ。よしもっと売ろう。
毎年1000円を「無言日記貯金」してもらえれば(月80円貯金)、10年後に10000円のDVD10枚ボックスをぱっと買えると思います。
半分冗談、半分本気。自分としては、10年後になにか映画を自己資金で作りたいとなったときに、クラウドファウンディングかなにかするより、こっちのほうがおさまりがいい。

2016年

年が明けたあと、2015年1年分の無言日記を繋げた。去年もそうだったが、毎月分をただ並べただけだとなんだか流れが違う気がして、カットを減らしたり、カットの長さを変えたりした。そうしてなんとなくこんなかんじかな、となったところでトータルの尺をみると、ちょうど去年と同じ66分になった。せっかくなのでそこで作業を終了した。

去年末にアンスティチュ・フランセでみた、ジャド・アパトーにインタビューしたドキュメンタリー映画、面白かった。こういうものをいろんな監督でみたいと思った。監督をしたジャッキー・ゴルドベルグは、ほぼ年が変わらず、映画の話をすると同時代感が強烈にあって(同世代でもちがうやつはちがう)、トニー・スコット『デジャヴ』がいかにいいかという話になり、おれが「留守電で自分の声をきいて驚くデンゼル・ワシントン」「転送された直後のデンゼル・ワシントン」の物真似を披露したあと、そういうノリのまま、クラブに行きたいというので夜一緒に渋谷WOMBに遊びにいき、イベントはそんなにいいイベントではなくてゴメンヨーと思ったのだけど、いい時間で、なかなか楽しい夜だったことをいまふと思い出した。その夜はまったく無言日記を撮ってないことにいま気がついた。

KAATでYCAM主催のダンスパフォーマンス公演をみた。アフタートークをきいてようやく起きていたことがなんとなく理解できた。どういう公演だったかというと、まったく説明できない。ダンス、興味はかなりあるのだが、でもまだよくわからない。わからないというのは、面白いとは思って見ているけど、その面白さを言葉にまだできないというか、掴みかねているかんじ。同じように、写真のこともずっとわからないと思っていたが、あるときちょっとだけわかった気もしたので、ダンスもいつかすこしわかるのかもしれない。ただ、無言日記をやってはじめて相対的に写真のことがわかった気がしたので、ダンスも写真同様、自分でやってみないことにはやっぱりわからないのだろうか。

先日の『無言日記2015』『無言日記/201466』上映にお越しくださった皆様、ありがとうございました。
つくりはじめてから2年経ち、このあいだの上映を終えて、たかが日記、たかがiPhone、たかが俺、という思いを今まで拭えずにいたことをようやく自覚し、べつに拭う気もしないものの、これはもうすこし広くみてもらいたい、みてもらわなければならない、とも思った。理由はよくわからないし、そのための方法もとくになく、変わらず撮り続けるだけだけど。
映画美学校の学生に、無言日記の上映後、「三宅さんはいつもなにを撮らないかばっかり考えてるなあと思ってたけど、あたってた」と言われて、笑った。どういう意味で言っているのか聞き忘れた。
撮っていてもおかしくないものはたくさんある。意図して撮っていないもの、意図もなくたんに撮ってないもの。それらすべてと一緒に「無言日記」をみてほしい、なんてお願いをしようとは思わないが、でも撮らなかったいくつかのものについても同時に考えながらつくってはいます。

今月の無言日記、電車で横になって寝ている男性のカット、いれるか迷った。彼に話しかける女性は、どうやら無関係の方で、おなじく酔っ払っていて、あのあとえんえん彼に話しかけていた。ぎりぎりだなあ、と思うが、一応使ってみた。
似たような種類のカットで、タワレコの試聴機でヘッドフォンしながらめっちゃ踊っているおじさんを背中から撮ったカットがあって、ぎりぎりよくない、と思って使わなかった。これはこのようには撮ってはいけない対象で、でもみせたいような瞬間ならば、それはフィクションを撮るときにしよう、というようなことを考えた。

今月はPVをつくった。”PHANTOM BAND”という曲名に沿って考えてみた。
まずは、これまでの無言日記をリミックスして、無言日記にもともとある「亡霊感」を叩き起こしてみようと考えた。いくつかバージョンをつくってみたが、全て捨てた。街角の映像を数倍速にすると、おおぜいの人がなにかから逃げているようにしかみえなくて面白かったが。逃げる人間の一方で、動物たちは自由なままだと思った。倍速を速めるほど、人はノイズになり、建築はぬっと際立ちはじめたりもした。
そのあと、ベタにホラービデオに挑戦してみようと思い、参考映像をみたり、肝試しのスポットにロケハンしようとしたが、やっぱり怖いのが苦手すぎて、夜電気を消して寝れなくなったので、やめた。
さてどうしようかとなり、今の完成バージョンのアイデアになった。

『ゴーストバスターズ』をみた。元祖のシリーズにはあまり思い入れがなくて、むしろ今回の主役の、特にクリステン・ウィグに思い入れがあるので、前のめりでみた。前半はびっくりするくらい、つるつるつるーっと話が進んで、うまいなあ、と思いながら、そしてギャグにずっと笑いながらも、しかし大丈夫なのかなあとも思いながらみていた。人物とセリフだけで全然面白いけど、どのシーンもあまりにひっかかりなく、変なカットとかたるみとか、妙なこだわりとかなく進む。で後半。一回、ああこの映画のピークはここかあ、と思って、すごいけどまあまあだなあ、と気をぬいていたら、その後おもいっきりピーク点が何度も更新される展開になって、それも全部、ちゃんと人物たちの足腰に力が乗った描写になっていて、まんまと持っていかれた。物語をすすめるためには無駄にみえるけど彼女たちにとってはどうしても必要なことなんだ、というような。ピョーンと亜空間?みたいなところにとびこんで仲間を助けにいくところにとても感動した。ピョーンと飛ぶところはあっという間の瞬間で、助けるところはぐっと力が入る。そのかんじ。あと、今年『白鯨との闘い』であんだけ格好よかったクリス・ヘムズワースのギャグマンぶりがちゃんと芸になっていて、笑いながらすごく感動した。
つるつるぴょーんと進んだり、のしのしぐっと進んだり。

パソコンが壊れたりなんだかんだしているうちに3ヶ月分ほど溜まってしまい、ようやく編集した。そのかわりに、久しぶりにマメに日記をつけていた。読み返してみたところ、自分が撮ったこのビデオ日記と、自分が書いた文字の日記と、自分がこう思うのはおかしいのか、あるいはあたりまえなのかわからないが、印象がまるで違う。映ってないことばかり書いてあるし、映っているものはろくに書かれていない、というかんじ。あたりまえといえばあたりまえか。

12月は久しぶりに劇映画をつくっていた。さすがに『無言日記』のカット数が減った。撮影中だろうがなんだろうが変わらず生活の一環として撮っていたい、と「考え」としては思っているのだけど、うーん、ぜんぜん無理でした。せっかくの劇映画=バンド活動だしソロはおやすみで……と事前にきっぱり割り切ったわけではなく、単に、まったく余裕なし。
「バンドとソロ」みたいなことを、たぶんこれまでもなんとなく感じていたものの、今回はじめて、はっきりと実感した。バンドやったことないけど。
きっとこれから、「さて自分にとって劇映画とは、無言日記とは」なんて、べつに考えたくなくても自然と考える羽目になる気がする。さあどうなるんだろう?
ひとまず、なんにせよ「無言日記」はせっかく3年続けられているし、今後も変わらず、その時の気分や考えにあわせることだけ考えて、あとは適当に気楽に継続していければと思います。というのが今日の気分です。

三宅唱監督『無言日記』2014〜2016を見る https://vimeo.com/ondemand/mugonnikki

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