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眼前にゴロンと世界が投げ出されてしまう瞬間
富田克也、相澤虎之助インタビュー

空族は、長編製作の際に極めて長期間に及ぶ準備ーー彼らはそれを「リサーチ」と呼ぶーーを行うことで知られている。それは彼らの作品を練り上げるために必要な作業であると同時に、なかば副産物のようなかたちでいくつかの作品を生み出す。
今回、配信される作品のうち、『FURUSATO2009 『サウダーヂ』のための長い予告編』(2009)『Rap in TONDO の長い予告編』(2011)『ラップ・イン・プノンペン 長い予告編』(2018)(以下それぞれ、『FURUSATO2009』『Rap in TONDO』『ラップ・イン・プノンペン』と表記)の「長い予告編」シリーズはそうした作品群だが、中にはその対象となるリサーチの結果を未だ持たないものもある。
一方、相澤虎之助監督による『花物語バビロン』(1997)『バビロン2 -THE OZAWA-』(2012、以下『バビロン2』)を含む「アジア裏経済三部作」は上記の流れからは独立したシリーズだが、しかし『バビロン2』でかたちづくられた「オザワ」というキャラクターが『バンコクナイツ』に再び姿を現すのを目撃した我々にとっては、これもまた空族のフィルモグラフィを織りなす源流のひとつであることを疑う余地はない。
はからずも空族のほぼ全作品に言及するロングインタビューとなってしまったこの取材を通じて、長編作品をつなぐミッシングリンクとしての「長い予告編」「アジア裏経済三部作」の重要性が浮かび上がる。そして、撮影対象となる土地や人々をただの被写体としてではなく、共に暮らし生きる仲間として扱う「リサーチ」が、今後さらに違う段階へと進みつつある兆候もこの中から読み取ることができるかもしれない。(聞き手・構成:結城秀勇、取材日2020年10月10日)

空族以前、『花物語バビロン』~『雲の上』『かたびら街』を経て『国道20号線』まで

ーー今回配信される作品は、「長い予告編」シリーズと「アジア裏経済三部作」の、大きくふたつに分けられます。
おそらくそのふたつの流れが入り混じるところに現在の空族がいるという話に行き着くと思うのですが、まずは製作年通りに『花物語バビロン』の話からうかがえますでしょうか。

相澤虎之助 そもそも「バビロン」シリーズを撮ろうと思ったきっかけは、やっぱり『イージー・ライダー』(1969)が好きだったってことでしたね。ロードムービー、つまり言っちゃえば旅の映画、観光の映画だから。それに加えて『ラスト・ムービー』(1971)も見て衝撃を受けた。最初期のデニス・ホッパーにはかなり影響を受けました。それが一番最初にカメラを持って東南アジアに行った動機だったんだと思う。それプラス、字幕とかナレーション重ねたりするのは、まあゴダールとかだけど。
『イージー・ライダー』は16mmフィルムで撮られてるから、自分もこういう映画を撮りたいと思ったんだよね。画面の質感というか、ちゃんとした画を撮りたいと。さすがに最初からいきなり『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ、1979)を撮ろうとは思わないじゃん(笑)。『イージー・ライダー』は、頑張ればできるかも、とかそういうことを感じさせてくれた最初の映画だったから。とりあえず、カメラを持つことができるんだっていうね。そしてそこからだんだんといろいろ日本のインディペンデント映画とかを見たり、そういうことをやってる人たちを知っていく。
だからそういう意味で、旅をする映画、旅をしながら撮る映画、ということを最初に考えてたのかもね。しかもひとりで撮れる8mmフィルムを使って。一応その頃は、シリーズとしてフィルム撮影することにこだわりはあった。

富田克也 一応、おれとトラちゃんが出会った頃の話をしておくと、トラちゃんは『花物語バビロン』の後も自主映画をつくってて、おれはまた別のところで映画をつくってて、それがたまたま、間に人を挟んで出会った。中野ゼロホールで自主上映会をやるっていうから行ってみたの。そしたら入場する時にいきなり分厚い資料をどんと配られるわけ。映画見る前になんなんだよ!って。映画ってそういうもの渡したりしちゃいけないはずじゃん(笑)、と思って映画見たら、なんか小難しい字幕いっぱい出てくるし、もう情報量多過ぎてよくわかんないけど、なんか凄かった(笑)。

相澤 あとこれは何度も話してることだけど、東南アジアに行ってトゥクトゥクとかサムロー、シクロに乗ると必ず運転手に言われる3つのことがあった。まず「女は要るか?」、それから「ドラッグは要るか?」、極め付けは「銃を撃ちたいか?」。この必ずついて回る「麻薬・武器・売春」をテーマにカメラを回し始めたのが「アジア裏経済三部作」という構想なわけです。

富田 映画を見たときはよく理解できなかったけど、その後よくよく映画のバックボーンとなっている歴史をおれも理解していくわけ。かつてアヘンの世界的な生産地であったゴールデントライアングルと呼ばれるラオス・タイ・ミャンマーに跨ったその地域では、アジアの戦中戦後のアヘン利権のからみあいが、そのままその後の共産圏と西側諸国との対立へと続いてて、近現代の歴史がそこに全部集約されている。そんな世界観を映画にしようとしてるやつが同世代でいるってことにまず衝撃を受けた。

ーーそこから『雲の上』(2003)『かたびら街』(2003)とお互いの作品への出演などを経て、2004年に空族が結成されると。

富田 おれの『雲の上』とトラちゃんの『かたびら街』が完成したタイミングで、じゃあ一緒に自主上映会やろうということになって。「選べ失え行け」っていうタイトルをつけて、まだいまの場所に移る前のアップリンクで7ヶ月間上映会やってね(2003年8月~2004年2月)。そのぐらいから空族と名乗り始めて。ちょうどその頃に「映画美学校映画祭2004」に『雲の上』を出したら、受賞して150万円のスカラシップがもらえることになって、「選べ失え行け」の最終回のときのあいさつでそれを発表できた形になったのかな。で、これなら次の作品は16mmで撮れるかもとなって。当時はまだデジタルのビデオはだいぶしょぼかったから、フィルムで撮らなきゃ映画の画面にならないって思ってたし(笑)、トラちゃんが「バビロン」シリーズからこだわってきたことの影響もあって、俺も『雲の上』を8mmで撮っていたから、16mm撮影というのは、俺たちにとっての順当なステップアップに思えたよね。それで、一緒に脚本書かないかって声をかけて、できあがったのが『国道20号線』(2007)。共同脚本という意味での共作はここから始まるわけ。
で、その『国道20号線』の公開がひと通り終わった後で、「東南アジア視察は必須」というトラちゃんからの要請を受けて、おれは生まれて初めて日本から外に出ることになった。
結局そのときに訪れたカンボジアで見たものが、後々のオザワに結晶化していく。

『バビロン2』の撮影、富田初海外

ーー『バビロン2』の製作年は2012年になっていますが、第一弾のカンボジア撮影に行かれたのが2007年の11月なんですよね。

富田 そうそう。だから空族の海外ロケ作品では、おれはまず撮られる側だったんだよね。

相澤 それに加えて、『バビロン2』のベトナムのシーンはトミッツが撮ってるから。

ーー監督がベトナムの撮影に同行すらしていないってすごいですよね……。『バンコクナイツ:潜行一千里』(河出書房新社)の年表を見ると、『FURUSATO2009』となるリサーチを開始するのが2008年の3月で、翌年の1月にベトナムパートの撮影だったと。

相澤 その時はたまたま、トミッツが行くって言うから、じゃお願いしますとカメラ渡して。

富田 俺がカンボジアから帰ってその興奮を話すもんだから、今度はヒトシ(伊藤仁)がベトナム行きてえなってことで、じゃあ行こうと。

相澤 そのときはもうカンボジアでオザワになった後だから、もうそのまま撮ってきてくれればいいと。全部お任せで。

ーー自分で確認して撮らなくてもいいくらいのところまで振り切れるのってなんなんだろうなって思うのですが。

富田 出会った頃からずっとそうだったけどね、すごいよね? 編集だってそうだよ、なにかこれをこうしてくれみたいなことがほとんどない。適当だよね(笑)

相澤 まあ適当だと思うけどね。ただやっぱり、字幕なりナレーションなりで歴史を追ってく作業は自分でやらなきゃいけないとは思うけど……。うーん、それだけだな。それだけ!

富田 『バビロン2』ではね、(詳しくは『バンコクナイツ:潜行一千里』を読んでください)、トラちゃんに生まれて初めて連れ出されたカンボジアで、それまで日本しか知らなかったおれの人生が瓦解してしまった。

ーー中年の白人男性が、白昼堂々、現地の幼女の手を引いていたのを見た、と書かれていましたね。

富田 自国じゃできないから行くわけで、つまりそこはやりたい放題の楽園じゃん。

ーー「旅行なんて結局、誰かが占領したり侵略したところに行くだけなんだ」、そんなセリフが『バビロン2』にあります。

富田 『バンコクナイツ』でも繰り返したセリフだね。だから後に『Rap in TONDO』の撮影でフィリピンに行く頃には、そういう歴史を踏まえ俯瞰する視点も持ち始めていた。そう、行けば行くほどね、呑気なだけじゃ帰ってこれなくなった。

「長い予告編」シリーズ第一作『FURUSATO2009』

ーーそして『サウダーヂ』(2011)のクランクインに先駆けて、2009年5月に『FURUSATO2009』が完成するわけですが、「長い予告編」シリーズの始まりであるこの作品について、どういう経緯で生まれたものか、改めてうかがえますか?

富田 『FURUSATO2009』になる素材を撮ってたときはまだ『サウダーヂ』なんてタイトルも決まってない状況で、自分の故郷である甲府の街のことをちゃんとよく知りたいと思ってた。生まれ育ったとはいえその後東京に出てしまったもんで、よくよく考えたら甲府のことをいまいちよくわかってないから、もう一度ちゃんと知ろうと。そのリサーチとしてやり始めたのが『FURUSATO2009』になった。
 きっかけになったのは『国道20号線』で。映画の最後で、登場人物が狂ったように踊るっていうシーンを撮らなきゃいけなかったから、ディスコのような場所を探してて、それでたまたまブラジリアンバー「サクセソス」っていうお店を見つけた。撮影の交渉してみると、経営者はブラジル人で、ブラジル人のお客さんがいっぱいいて、なんだここはと思った。
 その頃はまだ、ブラジル人たちの存在に無意識で、偶然に「サクセソス」を見つけて、ロケ場所として借りたっていうだけ。『国道20号線』はバイパス沿いに焦点をあてて撮った映画だったけど、これを撮ったことでいかに国道沿いの景色がチェーン店や消費者金融だらけになってたかってことに意識的になった。じゃ次はもっと視野を広げて、甲府という街全体を見ようと思ってほっつき歩き始めたら、ブラジル人たちの住むエリアに行き当たったりとかして、なるほど、あのブラジリアンバー「サクセソス」はそういうことだったのか、と後でだんだん気付いていったって感じ。
 ちょうどその頃、日本中がリーマンショックと北京オリンピック特需が終焉したことによる経済的なダメージをすごく受けてた。首切りとかもたくさんあって、業界自体が落ち込んでる雰囲気というかね。

相澤 だから最初は、工場とかを撮りに行って、出口からブラジルとかからきた日系の労働者たちがたくさん出てくるみたいな画を撮ろうかと思ったんだよね。けどもうそのときにはすでに、みんなもうクビになり始めてるみたいな状況だった。

ーー最初からこのドキュメントを作品化しようと思って撮り始めた訳ではないんですよね。

富田 ある作品を撮る、そのためのリサーチ。ただ取材してもすぐ忘れちゃうから、カメラで撮っておこうかなと。当時はソニーのZ7Jを片手にいろんなところに出かけて行って、必要があれば回してた。撮りためていって、あとで見たりすればシナリオの手助けになるだろうと思って。で、それを基にトラちゃんとシナリオ書いて出来上がったのが『サウダーヂ』。だから取材のために撮ってたものをドキュメンタリーとして作品にするつもりはなかったね。

相澤 『サウダーヂ』のプレイベントをやろうってなったのがきっかけだよね。あの時は今みたいにクラウドファンディングとかなかったから、若松孝二監督が『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008)の時にいろんなところを回ってビラを配り、みんなから現金を寄付をしてもらうという戦法を取ってたから、じゃおれたちもそれでやろうと。

富田 じゃあ山梨で寄付を募る会を設けようとなったんだけど、せっかくだからそのときみんなに見せられるものがあったらいいよね、みたいな感じで。こんな映画を作るんですよ、ということを手っ取り早くみんなにわかってもらうために、リサーチの映像を編集してみるかって。

ーーそのイベント用にということで「『サウダーヂ』のための長い予告編」というサブタイトルが生まれたわけですね。
当初、後に『サウダーヂ』で精司とビンを演じることになる鷹野毅さんと伊藤仁さんをインタビュアーにして全体を構成する案があったと以前うかがいましたが……。

富田 ごめん俺、記憶が前後してるな(笑)。そうそう、最初はこのリサーチを始めるにあたってカメラを回そうと思ったときに、後に作品にしたくなった時のために、ツヨシとヒトシを画面の中に入れて被写体兼インタヴュアーみたいな体裁を考えていたのかも。で、いろんなとこ行っていろんな人に話を聞いていくというようにね。それがさ、あのふたり、セリフがある役を演じるのは慣れてるはずなんだけど、ドキュメントでハイどうぞってなったらからっきしで(笑)。無駄に照れたり困ってグニャグニャしてるだけで役に立たなかった(笑)。んで結局おれがひとりでやることになったんだったわ(笑)。で、ドキュメンタリー作品として、カメラを回す撮影者が被写体に直接話しかける体裁ってのはダメだという美意識が当時の俺にはあってね。だからこれはドキュメンタリー作品にはできない、ならば単にリサーチ資料映像ということで割り切った、という流れだねきっと。

ーー『FURUSATO2009』を見ると、まるで『サウダーヂ』のパラレルワールドのような感じが、他にあんまり類を見ないようなものになってると思うんです。『サウダーヂ』として劇映画化された時に出てくる人たちが次々に出てくる。本当に奇妙な感覚に陥りますね。

相澤 あの頃ちょうどstillichimiyaの面々とも距離が縮まってきたんだよね。

富田 そうだね、田のライブシーンもあるしね。あの頃なんかラッパーと仲良くなったから嬉しくて、なにかっつうとすぐに、はいフリースタイルどうぞ!みたいな無茶ぶりばっかしてたよね、いままったく言わなくなったもん(笑)。

ーー改めて見ると、高野貴子さんの編集・構成がすばらしいですよ。

富田 編集ってことに関しては、すべてを高野に教わったんじゃないかって思う。高野の編集に関する感覚はいつも研ぎ澄まされてた。まあ、あらゆる感覚が研ぎ澄まされてるやつだけど(笑)。
山ほどあるテープ、たぶん60分テープで6、70本あったんじゃないかな、それをドンと高野に全部渡してさ、俺からの説明は一切なし。彼女はそこから全部見ていくわけさ。それで、編集が済んだものを渡されて見た時に、こっちが撮ってるときの感情まで察知して構成するのかって、驚いたし感心した。むかしからいつもそう。いつもなんの説明もなしに素材だけドン、て渡すとびっくりする作品になって返ってくる。高野の編集には昔から舌を巻いてたね。

Rap in TONDO長い予告編……

ーーそして『サウダーヂ』の編集を終えて2011年6月に『Rap in TONDO』の撮影に行かれたということですかね?簡単に経緯をうかがえますか。

富田 この作品のロケ地であるトンド地区は、フィリピンの中でもミュージシャンやアーティストを数多く輩出している地域である一方、ドラッグディーラーやギャング同士の抗争で毎晩のように銃撃戦が起こる東南アジア最大のスラムでもあって。その中で、あるギャンググループがラップをやり始めた。そこに目をつけた同じくトンド地区出身であるジム・リビランという映画監督が、彼らを主演に抜擢してオールトンドロケで『Tribu』(2007)という映画を撮ったんだけど、その時、ジムがひとつの条件を出した。抗争をやめるかわりに映画を作ろうと。で、抗争は止んだ。これはいいぞということで、トンドで生まれ育って、放っておけば犯罪に走るしかない子供たちを自立させるために、ジムが「Rap in TONDO」というヒップホップのワークショップを思い付き、日本の国際交流基金や同じくドイツやフランスの援助を得て開催に至ったというわけ。で、『サウダーヂ』にも出演してくれた、stillichimiyaのYoung-GとBig Benのふたりに声がかかって、日本代表として「Rap in TONDO」にトラックメイカーとして参加することになった。となれば、俺たちもついていきたくなるじゃん?Young-Gを介して国際交流基金に空族の帯同をお願いしてもらったんだよね。空族チームはおれとトラちゃんと河上健太郎、カメラ2台の音声ひとりという構成で、2週間同行して撮影した。

ーー『Furusato 2009』は「『サウダーヂ』のための長い予告編」だったんですけど、ここでいま便宜上『Rap in TONDO』と呼んでいるものは実は「『Rap in TONDO』の長い予告編」であるという……。

富田 (笑)
もちろん撮り終わって一本の作品にとするぞって思ってたんだよ……いや、いまでも思ってるんだよ(笑)。あのとき、帰国後のいいタイミングで、樋口さんがバウス爆音映画祭で空族枠を設けてくれて、じゃあそこで初お披露目したら?ってなったんだけど、マジで完成させるには時間がなかった。じゃあ作品の宣伝も兼ねて、長い予告編ってことでいいですかと。それなら気楽に編集できるなって(笑)。おれの中の気持ちを整理するための粗編みたいなものというか。

相澤 粗編って言っちゃった(笑)。
そういうわけで、「長い予告編」シリーズが勝手に生まれちゃって。

富田 その時の60分版がいまだに「長い予告編」という名前でずっと上映されているというのが真実です(笑)。いったいどのくらいの長さの本編にするつもりだったんだろうね(笑)。

ーー日本語字幕はつかないんですかね……。

富田 ほんとにねぇ……(笑)。そういうのをコロナ中に完成させろよと思いますよね(笑)。
でも我々も被写体も生き物だし…時間が経つと…ねェ。
 結局、「予告編」だからという自分への言い訳を作ってきたんだろうなと思いますよね(笑)。でも、ほんとの予告編はこれまた難しいからね?だから「長い」なんて、エクスキューズを更に入れてね…。どんだけ自分に猶予作ってんだよといいたい(笑)。結局撮影現場に行ってる時が一番ブチあがってるわけで、帰ってくると茫然自失、いつもね…。そんな俺の映画人生が生み出したのが「長い予告編シリーズ」ということになりますか(笑)。

相澤 いま思いついたんだけど、今回の配信用に、NORIKIYOくんの「What Do You Want?」のMVをつけるってどうだろう?

富田 いいじゃんいいじゃん!あれこそまさに「Rap in TONDO」だもんね。

ーーそうやって時を経てバージョンが変わる。

富田 予告編と言ってる手前、まだ未完なわけで。そして彼らとの親交は続いてるわけだから、その時々でまた新しい何かに変化しながら続く、ということだね。

観光客の目線、旅人の目線

ーー改めて見直して思ったのは、『Rap in TONDO』は、まるで観光客というか旅人のような目線で撮られているということです。いろんなものが目の前を通り過ぎていく、自分たちも移動する、それを撮ってる、みたいな。
そしてそれはもとを遡れば『花物語バビロン』にもあったものなんじゃないのかという気がするんです。

相澤 思えば『Rap in TONDO』は本当に記念碑的な作品で、YoungGとBig Benのおみゆきチャンネルと一緒にフィリピンに行って、そこでまた彼らもアジアのヒップホップというもののすごさに改めて出会った。特にYoung-Gなんて、それがずっといまに至るまでの活動に大きく影響を与えているわけだから。シルバートたちとは非常にいい出会いだったと思うよね。

富田 シルバートは確かYoyng-Gより5、6歳若く、つまり俺たちより15歳近く年下なんだけどさ、到底そうは思えない人格者ぶりだから、どんだけ死線を潜り抜けてきたのかと想像しちゃうよね。そこら辺の詳しいインタヴュー素材とかあるんだけどね、入ってないよね、予告編だから(笑)。例えそれを聞いたとしても、一億総ピーターパン症候群みたいな日本人の我々にはちょっと想像し難いよ……。Young-Gはアメリカに住んでたこともあるから、そういう意味でも、フィリピンのヒップホップにふれた時に、ゲットーからやむにやまれず生まれ出たライフスタイルとしてのヒップホップをアジアに見たんじゃないかな。

ーーさきほど『FURUSATO2009』で、最初は自分の声が入るのは嫌だったって言ってたじゃないですか。でももはや『Rap in TONDO』ではめちゃくちゃみんなに「トミー、トミー」って呼びかけられてますよね?
最終的にはラップまでさせられてる(笑)

富田 性格だね。無理なんだよ、カメラの後ろにいる役に徹するっていうのが。因みにあのシーンの子たちは、虐待を受けたり、やむにやまれぬ理由で家にいられなくてストリートチルドレンになっていた子たちだったんだけどさ。実際、彼らとワークショップで接するのは、シルバートやYoung-GやBIGBENなわけで、撮影クルーってのは一歩引いてそれを撮影するのが使命なんだろうけどさ、だめなんだよね、すぐ仲良くなりたくなっちゃうんだよね(笑)。「ドキュメンタリー」としては、被写体に距離を保ち続けた方がいい場合もあったりするのかもしれないけど、おれらがつくってるのはそういうものじゃないんだよね。すぐ肩入れしたくなるからね。

『バビロン2』の完成、そして『3』は?

ーーそして『サウダーヂ』が2011年10月に日本公開。翌年2月に『チェンライの娘』(2012)の撮影のためにタイへ、そして同年11月には『バビロン2』が公開するわけです。

相澤 さっきも話したように、『国道20号線』が終わった時点でカンボジアに行ったりして、『サウダーヂ』の完成前には『バビロン2』の撮影はほぼ終わっててました。その後ちょっと日本のパートを撮ったりしたんだけど。
それで『サウダーヂ』が終わった後に、じゃ今度は『バビロン3』のための映像を撮りに行こうって、また毅くんとか仁くんとかと4人で行ったんだよね。

ーーそれが結果的に『バンコクナイツ』にもつながってくる……?

相澤 結果的にはそうだね。

ーー足かけ5年の歳月を経て『バビロン2』が完成したわけですが、『バビロン3』は……?

相澤 言ってみれば、『バビロン3』のテーマはすでに『バンコクナイツ』で撮られてはいるんだけど、ただその4人で行った時にラオスで撮った映像が実はあったりします。それをどうしようか、あと何年かかるかなって話にはなってる。ただ「バビロン」シリーズはその……なんていうかまあ……趣味……。

ーー趣味!!

相澤 まあライフワークとか言ってますから、別に何十年かかっても最終的にできればいいかなっていう。そのくらいのスパンで、「バビロン」シリーズは考えている。

『ラップ・イン・プノンペン』はなんの「長い予告編」か

ーー『ラップ・イン・プノンペン』の製作経緯を簡単にうかがえますか?

富田 『バンコクナイツ』の準備期間を終え、いよいよ撮影となった段階でに仲間たちを呼び寄せた。その時にYoung-Gも合流してきたんだけど、Young-GはDJだから音楽を吸収するスピードがおれたちより圧倒的に早い。おれやトラちゃんがそこまで5、6年かけて蓄積してきたものを駆け足に伝えると、それを元にしながら独自にババーッとディグっていく、そのスピードがすごかった。当然、おれたちはタイの音楽を調べてたんだけど、あいつはあっという間にカンボジアにも辿りついちゃう。
そんな中で、こんなの見つけたんですよねって見せてくれのがKlapYaHandzっていうYouTubeのアカウントだった。詳細はわからないけど、どうも現地カンボジアのオールドスクールなポピュラーソングをサンプリングして、そこに現代的なラップを載せているんじゃないかと。そしてMVの内容がカンボジアの風景なのはわかるんだけど、どこか映画っぽい。『バンコクナイツ』を撮ってる間もしょっちゅうBGMに流してた。
 で、撮影が終わって、Young-Gは日本での活動をいったんストップしてバンコクに住みはじめたんだよね。俺もバンコクだったから、そういえばKlapYaHandzってのは一体なんなんだ?って、改めてそういう話になって。じゃKlapYaHandzに会いに、プノンペンまで行こうってことになり。おそらく彼らも映画とヒップホップ、つまり音楽活動が融合しているんじゃないかと見当をつけてたわけ。案の定そうだった。を

ーー映像プロダクションと音楽レーベルを兼ね備えたものだったわけですね。

富田 でもおれたちよりよっぽどしっかりしてたけどね。

相澤 本当だよ。

富田 おれたちと同じような集まりだろうなと思ったら、それどころじゃねえじゃんみたいな。日本で例えるなら、戦後台頭していった芸能プロダクションの始まりに立ち会っているような。

相澤 ラオスでもインディペンデント映画やってる人たちに会いに行ったり、カンボジアでも他のインディペンデント映画やってる子に会いに行ったりとかしたけどね、おれたちより全然すごいんだよ。おれたちは事務所さえないんだから。

ーーで、『ラップ・イン・プノンペン』はもはや「〇〇のための~」ですらない、ただの「長い予告編」になってるじゃないですか……?

一同 (笑)

相澤 『バンコクナイツ』が終わるか終わらないかくらいの頃から、我々の間でなぜか「ONE MEKONG」という言葉が出てきて、それはメコン流域の文化だったり音楽だったりっていうのをひとつのものとして見ていこう、そうすることで国境などという概念を取っ払おうってことなんだけど、stillichimiyaとかSoi48とかも含めてみんなでそういうもの掘っていこうという流れの中で、ヴィサル・ソックさんという人とKlapYaHanzという集団がいるってわかって。
その「ONE MEKONG」活動でなにか撮ろうってなったのがはじまりだよね。

富田 そう、だからなにか一本の映画を撮ろうと思ってその準備のために行ってるというよりは、そこに関わったことによる今後のおれたちのすべての動きにおける予告編ってことだから、ただの「長い予告編」なんだよね。もう映画どうのこうのじゃなくて、全部。なにが起こるかはお楽しみってことで。映画ができるかもしれないし、音楽もできるかもしれないし、彼らとの交流は深まっていくだろうと。

相澤 おれたちみんなが「ONE MEKONG」ってことで動いてる、そのうちのひとつ。

ーーヴィサル・ソックさんって侯孝賢の映画とかに出てきそうなすごくいい顔してますよね。

富田 でしょ?! カンボジアで映画撮りたいよ。

相澤 だから今後、ぜひ役者デビューしていただこうと思ってます。

『ラップ・イン・プノンペン』から『典座』へ

ーー『ラップ・イン・プノンペン』冒頭のインタビューでYoung-Gが、「モーラムを初めて聞いたときに、聞いたことはないんだけどどこか懐かしい感じがした」と言ってます。それはまさに『サウダーヂ』で語られていたようなことであると同時に、『典座―TENZO―』(2019)の「悟り」と「異国情緒」の話にもつながっていく気がするんです。インタビューのロケーションの風景も、山梨をどこか思い起こさせる。

富田 さっき、旅人目線って話がでたけどさ、それっていまから思うと俺たちにとってすごく大事なことだったんじゃないかって思うんだよね。観光客目線ってさ、よくない目線だってことにされがちじゃん?ドキュメンタリーでも、劇映画でも、いや、なににおいてもあまり良くないとされてる。異国情緒という言葉にしても、どっちかっていうと耶輸のニュアンスじゃん。だからおれらも、外部から撮っちゃだめだ、内部に入り込まなければっていう作り方をしてきた。……でもさ、その異国情緒、非日常って言い換えてもいいけど、それが日常になってしまうまでのごく短い間にしか感知できないものがあるんだよね。
やっぱり常日頃目にし続けているってことは、目も感覚もそれに慣らされ、すべてのモノは意味と紐付けされていく。でも目の前にあるモノからすべての意味がはく奪されて眼前にゴロンと世界が投げ出されてしまう瞬間がある。坂口安吾が『堕落論』で書いている空襲後の風景のことを思い出してもいいし、『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク、1974)のカスパー・ハウザーが外に出されて初めて視た景色でもいい。津波に呑まれた福島沿岸部も、昨日までの日常が一瞬にして異国と化してしまった。空襲も津波もカスパー・ハウザーの体験もできることならしたくはないけど…。優れた映画の中にはその秘密が映っているよね。小津の映画の中に、ドライヤーやルノワール、フェリーニ、ブニュエル、ロッセリーニ、鈴木清順、もちろん柳町光男、黒沢清、北野武、そして『地獄の黙示録』や『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー、1974)等々、ここに挙げきれない多くの名作の中に映ってるよ。

相澤 映画はそれを見せるものだよね。

予告編シリーズとはなにか

ーー「長い予告編」シリーズは、リサーチと創作物が対になっている空族の製作方法の象徴のような気がするんですが、今後もこのスタイルは継承されるんでしょうか。

富田 予告編シリーズは、本来作品にするつもりもなかったというのと、ほとんど遊びながらやってきたものなんで、あたたかい目で観てほしいですね。一般的な映画の完成度と見比べられちゃ困るってとこはあるし、そういう雑で適当だからできることもあるよね、くらいのぬるい感じで楽しんで頂けるなら、今後もやろうかな(笑)。『FURUSATO2009』のときによくあったのが、例えばブラジル人たちのところへ行って、色々撮って今日はもういいだろうと早く遊びたいからカメラ(SONY Z7J)をしまってさ、そしたらそのあとにミラクルな場面に遭遇して地団駄踏むとか、そんなのばっかだった。もうこんなにいいとこばっか撮り逃してるようじゃ、とても作品になんかならん、と。だから結局カメラをしまって遊ぶために考えたエクスキューズが作品にはしない、ってことだったんだね。まあでもあの頃はカメラもデカかったし、今はスマホでもそこそこいけるし、前よりはすげえやりやすくなったよね。というわけで、このシリーズに関しては、いろいろめちゃくちゃかもしれないけど、逆にすべてを整えている本編などにはないよさがあるかもしれないということで楽しんで頂ければと。樋口さんってそういうの好きだよね(笑)。たまにそういうのしか好きじゃないんじゃないかって思うことすらあるし(笑)。だからこのシリーズをGhost Streamで配信してくれるのかな?

相澤 音じゃないものを聞いて、映像じゃないものを見る。

今後の展望

ーーいやあ、はからずも空族のほぼ全作品にまたがるインタビューになっちゃいましたが、最後に今後の展望をうかがえましたら。
最近富田さんは釣りばかりしてるという話を聞いたんですが……。というかこのインタビューをしてる机の上にも、ペドロ・コスタの『ヴィタリナ』(2019)のパンフの隣にリールが置いてある……。

富田 ペドロパイセンの『ヴィタリナ』、もう最高でしたよ!彼の作品の中でも一番好きだな。そんで、そう俺たちはというと、釣りばっかしてたんで釣り映画を作るしかないっていうところに来てます(笑)。いまだかつてない釣り映画を(笑)。これまでにないほど自然の中にいたってことかな。そういう意味でも『典座』をやったことは大きかった。まぁ、毎日リールをバラして組んでますよ(笑)。釣り人狂ってるからね!(笑)。あ、いま井伏鱒二も読んでる。

相澤 それはすごいね(笑)

ーー釣り映画のためのリサーチがすごい……。
噂に聞く『サウダーヂ2』はどうなんでしょう?

富田 もうだから『サウダーヂ2』が釣り映画になるんだよ(笑)。今日の話もふまえて、結局自分たちがやってることがそのまま映画になるだけなんだなと気がついた最近(笑)。

長い予告編シリーズを見る https://vimeo.com/ondemand/nagaiyokoku
バビロン1&2を見る https://vimeo.com/ondemand/babylon1and2

富田克也
1972年山梨県生まれ。2003年に発表した処女作『雲の上』が「映画美学校映画祭2004」にてスカラシップを獲得。これをもとに制作した『国道20号線』を2007年に発表。『サウダーヂ』(2011)ではナント三大陸映画祭グランプリ、ロカルノ国際映画祭独立批評家連盟特別賞を受賞。タイ、ラオスでの長期滞在により製作された『バンコクナイツ』(2016)は、ロカルノ国際映画祭など世界約30の映画祭に出品された。現時点での最新作である『典座 -TENZO-』は、2019年カンヌ国際映画祭 批評家週間「特別招待部門」に選出。

相澤虎之助
1974年埼玉県生まれ。早稲田大学シネマ研究会を経て空族に参加。監督作、『花物語バビロン』(1997) が山形国際ドキュメンタリー映画祭にて上映。『かたびら街』(2003)は富田監督作品『雲の上』と共に七ヶ月間にわたって上映会を行った。空族結成以来、『国道20号線』『サウダーヂ』『チェンライの娘』『バンコクナイツ』『典座 -TENZO-』と、富田監督作品の共同脚本を務めている。自身監督最新作はライフワークである東南アジア三部作の第2弾、『バビロン2 THE OZAWA』(2012)。

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