『FUGAKU』と題された3つの映像作品からなるシリーズは、その不思議な感触で私たちを魅了する。多摩美術大学の演習の一環として撮られたこれらの作品は、商業映画の制作環境とはまったく異なる条件のもと、ずっと慎ましい予算で、学生たちを主要なスタッフとして作られている。それゆえに、と即断することは避けるべきなのだが、『FUGAKU』シリーズには、それらが「映画」であり「作品」であることを自明視させない危うさがある。このシリーズの独特の魅力は、そんな危ういたたずまいと不可分の関係にある。
『FUGAKU』シリーズの「映画」としての危うさ。それはもちろん作り手であるスタッフの経験の浅さからくる心許なさではないし、商業映画の制作を支えるインフラ(スタッフ、機材、スタジオ etc.)を欠いていることから生じる消極的な不安定性でもない。そうではなく、それは商業的な枠組みで作られる映画を支えると同時に拘束してもいるインフラの不在を逆手にとって、必要最小限の要素から「映画」が立ち上がる瞬間を見とどけようとする実験性に由来する積極的な危うさである。シリーズ第1作の『犬小屋のゾンビ』には、とても印象的なトラッキングショットがある。そこでは歩道を歩く2人の男の背後に広がる森の木々のあいだから、カラフルな衣装をまとった女性たちが不意にあらわれる。まさしく彼女たちのように、『FUGAKU』シリーズでは、「映画」がぎこちない足どりで(しかし力強く)不意に姿をあらわす。その瞬間を目撃することのスリル。そこにこそ、このシリーズを見る楽しみがある。
「作品」としての危うさについて言えば、『FUGAKU』シリーズは作品としての輪郭がきわめて曖昧である点に特徴がある。私たちが見るのは、現実から鋭く一線を画し、内的な首尾一貫性を備えて屹立する「作品」ではない。それはむしろスクリーンの外部に広がる現実と切り離しがたく結びついた何かである。すなわち、撮影前、撮影中、撮影後を通じて監督が学生たちとともに生きたであろう時間の厚みが、スクリーンの内部にまで浸潤しており、その気配を私たちに感じさせずにはおかないのである。言い換えれば、『FUGAKU』シリーズは、それぞれのパートを別個に見ることのできる作品集であると同時に、全体として、ひとりの映画作家と学生たちとの出会いの記録でもある。この側面がもっとも濃密にあらわれているのはシリーズ第3作の『さらば愛しの eien』だが、それはすでに『犬小屋のゾンビ』にも十分に感じとることができる。たとえば、この作品には、さしたる理由もなくあらわれては人びとの周囲を走り回り、なにやら謎めいた言葉を吐いて姿を消す一輪車に乗った女性が登場する。彼女は間違いなく、このシリーズ全体でもっとも愉快な存在であるが、その出自は監督の脳裏にではなく、共有された時間のうちにあったはずだ。
俳優がスタンバイし、マイクロフォンが構えられ、カメラが動き出す。しかしそれだけではまだ「映画」は生まれない。ではどうすれば、映像と音響のまとまりは映画になるのだろうか? どんな瞬間に映画はその姿を私たちの前にあらわすのだろう?
「それは〈やりかた〉の問題なのだ」――監督は学生たちにそう語りかける。とは言っても、言葉で説明するのではない。じっさいにその〈やりかた〉をやってみせることで、監督は学生たちにそれを伝えようとするのである。もちろん〈やりかた〉はひとつではなく、いくつもの種類があるのだが、肝心な点は、それらがいずれも単なる個人的な思いつきではないということだ。それらいくつもの〈やりかた〉は、すべて映画の歴史のなかで積み上げられてきたものであり、かつ同時に、その歴史の重みを全身で感じながら、そのつど現場であらたに発見しなおされねばならないものだ。『FUGAKU』シリーズで私たちが見るのは、そのことを身をもって示してみせる監督の姿でもある。シリーズ3作すべてに監督がみずから出演していることは、もちろん単なる思いつきではない。
『FUGAKU』シリーズで「映画」が姿をあらわす瞬間は、なによりもまず活劇性と結びついている。活劇が生まれるとき、映画はすでにそこにある。このシリーズで監督が学生たちとともにやってみせるのは、活劇を生むいくつかの〈やりかた〉である。活劇の誕生にとって、物語はデタラメであっても構わないが、カメラの位置やアングル、ショットのサイズやフレーミング、俳優やカメラの動きは、どうでもよい事柄ではない。つねに不確定性とともにありながらも、それらがデタラメであることは許されない。ひとつの動作が映画的な身振り(アクション)へと生成するときにのみ、活劇は生まれる。監督はかつてそのような事態を、ある特定のフレーミング(の変化)のもとで《環境》と《身振り》の内にすでに蓄えられていた「潜勢力」が可視化されること、と定義していた(『シネマ21』、22頁)。
『FUGAKU』シリーズには、そうした活劇性に満ちたアクションの生成する瞬間が豊富に含まれている。すでに言及した森を背景にしたトラッキングショットの場面がそうであるし、『犬小屋のゾンビ』の冒頭で停止した車を真正面からきっちりフレームに収めたカメラが不意にスルスルと後退して手前に置かれた柵を映し出すのと同時に、車から降りてきた男が路上をふらふらと歩き出し、その背後から一輪車に乗った女性があらわれて車の周囲を回り始めるときにも、いくつものアクションの同時生成によって画面が一挙に活気づく。あるいは湖畔の居酒屋の場面を挙げることもできる。そこでふたりのよそ者と酒場の客たちとのあいだで交わされる視線と台詞の劇は、(西部劇的な)活劇の感覚に満ちたカット割りによって示される。他方、『さらば愛しの eien』では、活劇的なアクションは、ほぼ銃撃の身振りに集約されている。そこでは同じひとつのアクションが、いくつものバリエーションによって示されるだろう。
だが活劇の魂はなにも銃撃のような派手なアクションにのみ宿るわけではない。俳優がごく穏やかに言葉を発するという、ただそれだけのことも、十分にスリリングな活劇となりうる。変化していくフレーミングのなかで俳優が言葉を発するとき、その姿勢、発話、眼差し、表情が周囲の空間と共鳴しつつ、無意識の厚み(潜勢力)を含み込んだかたちで可視化されるなら、活劇が生まれる。すなわち、それはもはや演劇上演の記録映像ではなく、まぎれもない映画となる。プロの俳優を招いてチェーホフの『かもめ』の上演を撮影したシリーズ第2作『かもめ The Shots』が探求するのは、そうした言葉を発することの活劇性である。たとえば、映画の中盤でトリゴーリン(髙橋洋)がマーシャ(鶴巻紬)、ニーナ(川添野愛)、アルカージナ(とよた真帆)と順番に言葉を交わす場面では、舞台装置が最小限に切り詰められているがゆえに、かえって俳優の力と発話の活劇性が生々しく前景化することになる。ここにはなんとも贅沢な映画的快楽が存在する。
ちなみに同作での『かもめ』の演出において、監督が明示的には原作に含まれていない細部を付け加えていることにも注目しておきたい。それによってこの戯曲の登場人物のなかでもっとも惨めな存在に、 すなわち他の登場人物からほとんど相手にされないだけでなく、観客からも戯曲を書いた劇作家自身からも軽んじられているように思える人物に、光が当てられることになる。この人物が軒下で雨宿りをしているところからはじまるシークエンスは、この改変によって生まれた活劇的場面である。
『犬小屋のゾンビ』は、二人の男が仕事の依頼主である教授のもとに車で向かうところから始まる。運転席でハンドルを握る男と深く倒された助手席でケースに入った映画フィルムをいじる男のやりとりが、小気味よいカットの繋ぎによって示される。その会話からわかるのは、二人が友人でも兄弟でもなく、仕事上の間柄であるということだ。助手席の男は「おれはエージェント、お前は映写技師、それ以上でもそれ以下でもない、お前はおれが依頼した仕事をすればそれでいいんだ」といった内容の台詞を言い放つ。つまりこの作品が描いているのは、依頼主、エージェント、映写技師の3人からなるプロフェッショナルな関係性の物語であり、エージェントが無責任に仕事を放り出して退散するのとは対照的に、映写技師は依頼主である教授の無茶な要求に忠実につきあい、「雇われ仕事」を見事に完遂してみせる。
仮に『FUGAKU』シリーズを構成する3つの作品に通底する隠された主題があるとするなら、それは「仕事をすること」をめぐる問いではないだろうか。『犬小屋のゾンビ』はすでに述べた通りだが、『かもめ The Shots』でも作家の仕事(書くこと)や女優の仕事(演じること)が話題になるだけでなく、生活のための「雇われ仕事」と家族の世話に心身をすり減らす教師が登場し、原作の戯曲では与えられていなかった重みを付与されている。他方、『さらば愛しの eien』の白黒パートで描かれるのは、プロとして仕事を遂行する殺し屋たちの生きざまであり、カラーパートで私たちが目にすることになるのは、映画を教える大学教員として学生たちと接する青山自身の姿である。シリーズ全体を通して「仕事をするとはどういうことか」という問いが、さまざまな仕方で扱われていると言えないことはない。
そもそもこのシリーズの全体は、すでに指摘した通り、映画を作るという仕事がどんな営為であるのかを、じっさいに学生とともにそれを作ることを通して伝えようとした青山の試みの産物であり、その記録でもあった。映画を作るという仕事、それは集団の作業であるが、そこでは映画を生み出すことの喜びの共有が雇われ仕事(賃労働)の社会的現実とつねにしのぎを削っている。大学で映画を教えることも、本質的にはそれと大きく異なってはいない。大学の教師も雇われ仕事であることには違いないし、学生も授業料という対価を支払って教育サービスを購入する存在だと言えるのだから。それゆえ映画を教える大学の教室でも、映画を作る喜びの共有が資本主義の社会的現実としのぎを削ることになる。
『犬小屋のゾンビ』では社会に背を向け湖のほとりに引きこもり、周囲からまったく理解されないピカピカ教授を、『かもめ The Shots』では女優から「過去の遺物」扱いされる老人シャムラーエフを演じた青山は、『さらば愛しの eien』では、幽霊や死のマテリアリズムといったきわどい話題を持ち出して学生たちを戸惑わせる一方で、いつしか酩酊から眠りへと滑り落ちていく大学教授として登場する。このカラーパートのカメラは、白黒パートの活劇的場面とは対照的に、まったく腰が据わらない。どこまでも緩いフレーミングで捉えられ続ける大学教授=監督はついに眠り込んでしまう。それでも学生たちは歌の制作を続け、映画の撮影も止まらない。ここで教師=監督である青山は、からだを張ってコントロールを放棄し、学生たちにバトンを渡そうとしているようにみえる。まるでそうする以外には、教師と学生という制度的現実から、またそこに浸透する資本主義社会の論理から、逃れるすべなど存在しないとでもいうように。それが成功したのかどうか定かではない。そうした抗いなしに本当の仕事を成し遂げることなどできないのだという青山のメッセージは、学生たちに届いただろうか。いずれにしても、スタジオセッションの喜びと幸福感に満ちた時間が、この一点を通過することではじめて可能になったものであることは確かだ。最後に別れの銃弾が撃ち込まれるその前に、まずはその時間を楽しもうではないか。
海老根 剛
ドイツ文化研究・表象文化論。大阪市立大学大学院文学研究科准教授。元『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』編集委員。論文に「弁天座の谷崎潤一郎 : 昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論」、「大衆をほぐす―シアトロクラシーと映画(館)」(『a+a 美学研究』第12号)、訳書に『ヴィデオ――再帰的メディアの美学』(イヴォンヌ・シュピールマン著・柳橋大輔、遠藤浩介共訳/三元社)、『自然と権力』(ヨアヒム・ラートカウ著・森田直子共訳/みすず書房)など。京都市在住。https://www.korpus.org
青山真治監督「FUGAKU」を見る https://vimeo.com/ondemand/fugaku123