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映画を教えるという不可能と向き合った、苦闘の記録として
青山真治インタビュー

青山真治監督が2013年から2015年までに監督した短編シリーズ『FUGAKU』。その3作品『FUGAKU 1/犬小屋のゾンビ』『FUGAKU 2/かもめ The Shots』『FuGAK 3/さらば愛しのeien』がGHOST STREAMで配信される。「FUGAKU」という名前で結ばれつつも、まったく別の物語と設定を持つこの3つの映画は、いったいどのように生まれたのか。話をうかがううち、映画監督・青山真治が2010年代以降、どのように映画制作と向き合い格闘してきたか、その記録のようなものが徐々に浮かび上がってきた。(聞き手・構成:月永理絵、協力:大橋咲歩/取材日:2021年10月23日)

 

■書かないことから出来上がった『犬小屋のゾンビ』

――私がこの『FUGAKU』シリーズを最初に見たのは2018年10月にユーロスペースで行われた「特集/青山真治」でした。とても奇怪な物語を持つ1作目から始まり、チェーホフ劇、そしてドキュメンタリーとフィクションが混ざり合うような3作目までとても不思議なシリーズだと感じましたが、そもそも『FUGAKU』はどういう経緯で制作が始まったんですか? 元々は多摩美術大学の学生たちとつくった作品なんですよね?

青山 2012年に大久保賢一さんから声がかかり、多摩美の造形表現学部で僕が教え始めたのが始まりです。学生が自分たちで映画をつくって上映するまでを1年くらいかけてやる映画の制作ゼミをやってほしいということで、前の年には塚本晋也さんが1年間担当していたそうです。最初の1年間ゼミで学生と接してみてわかったのは、この人たち映画のつくり方は全然知らないんだなってことなんですね。もちろんわからないなりに撮ってみるっていうのも大事だけど、一方のやり方として映画の基本的な制作方法を知ってやったらどうなるの、と。そのためにまず僕と一緒につくってみますか、みたいな。

――学生たちに撮らせるというより、青山さんが撮っているのを学生たちに見せる目的が大きかったわけですか。

青山 いわゆる「背中を見て学べ」みたいなことですよね。たぶん僕が言葉で教えても埒があかないだろうから、じゃあまず僕がつくります、それを見て参考にしてくださいと。これは実は映画美学校のときから考えていたことだし、多摩美の後に教えることになった京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)でも基本は同じでした。

――1作目の『犬小屋のゾンビ』は青山さんが監督・脚本を手がけ、出演もされていますけど、それ以外のスタッフ・キャストはみなさんゼミ生の方々ですか。

青山 そうですね。1作目のときは外部からのゲストはいなくて、ゼミの2年生、3年生からほぼ集めました。最初の2本で撮影を担当した西村果歩は、1年目から他の授業で撮ったものの成果を見て僕からカメラをやってほしいと頼んで、2作目の『かもめThe Shots』でも続けてお願いしました。3作目の『さらば愛しのeien』はまたちょっと別で、撃ち合いの部分もひっくるめて僕はドキュメンタリーとして考えていたんですね。だから基本的な画は決めていくけど、前2作みたいに具体的にここをこうして、という指定はしなかった。僕がカメラを回すこともあれば、ずっと回しっぱなしにして誰かに見ていてもらうみたいなこともあった。だから3本目だけ撮影の方法も前2作とかなり違ってましたね。

――『犬小屋のゾンビ』の脚本はどういうふうに書かれていったんですか。

青山 実をいうと、あの頃は自分でものを書きたくないって気持ちが強くあったんですよ。2010年代に入ると同時に、自分で書いた脚本を撮る気がどうしてもしない、という変な病にかかっていて。『東京公園』(2011)は3人で書いてなんとかうまくいったんだけど、『共喰い』(2013)を撮り終わってからは、この先できれば一文字も書きたくない、なんとか文字を書かないで映画を撮る方法はないかってことばかり考えてたんです。解決策として、ひとつは人の書いたものをそのままやる。それで『かもめ』は、チェーホフの戯曲を切り貼りしてつくった。で、『犬小屋のゾンビ』はどうしたかっていうと、これは全部Twitterのbotにあった言葉なんです。たとえばドゥルーズやカフカのbotの言葉をTwitter上で見つけて、それを書き写してセリフとして構成しながら一話にしていきました。

――なるほど、エンドクレジットにシェイクスピアやカフカ、シモーヌ・ヴェイユなどいろんな作家の名前がずらっと出てくるのは、Twitter上で見つけた言葉の引用なんですね。

青山 中には読書中に拾ってきたものもあるだろうけど、それ以外はほぼTwitterで見つけたものですね。

――でもオリジナルでつくったセリフもあるわけですよね?

青山 いや、脚本として自分が一から書いたセリフっていうのはほぼないです。言い回しが苦しそうだったら直したりはしたけど、基本的にはTwitterに出てきた言葉をそのままメモして、その通りに読んで、という感じで俳優たちに渡しました。日常会話みたいなものがあるとしても、それも普段彼らと交わす会話から見つけてきたものです。

 

■大学での出会いからすべてが出来上がっていった

――言葉の引用でつなぎ合わせたとはいえ、通して見ると物語の顛末はしっかりできていますよね。

青山 そのへんはやっぱり癖みたいなものでできちゃうんでしょうね。

――演出の過程で自然と物語がつくられていったということですか?

青山 その前の準備段階でということかな。大学の研究室には鈴木余位と山本圭太という助手が二人いて、さらに学生たちも出入りして、ゼミが終わった後いつも、こういうことをやるにはどうするかとか話していたんですね。ピカピカ教授は見ればわかるように『ゴダールのリア王』(1987)のプラギー教授の模倣なんだけど、ただこっちは夜光らせたいんだと(笑)。クリスマスツリーみたいに教授をピカピカさせられないかねって話をしていたら、山本圭太はインスタレーションとしての照明をつくってきた人で、数日後に「これならできますよ」とヘッドギアみたいなのを見せてくれた。もう一人、大沼史歩というこの映画に美術デザイナーとして参加してくれた学生がいて、彼女は僕が多摩美で授業を始めて「こんな才能を持った人がいるのね」と驚いた人の一人なんです。彼女も次々にいろんなアイディアを考えてきてくれて、それで教授の造形や何かが決まっていった。
たとえば板切れ一枚でも「何かに使えないかね」と話してるとちょうど書道がものすごくうまい学生(映写技師Kを演じた山本圭祐)がいて、「じゃあ店の名前を書いてみてよ」「それなら蕎麦屋にするか」と。さらに秋草瑠衣子という元宝塚の人がいて、とにかくダンスができる。振り付けができる。じゃあエンディングは群舞だと(笑)。シチュエーションや物語を含めてみんなでいろんなアイディアを出していくうちに出来上がっていった感じでした。だからTwitterの文言を引っ張ってくるのと同じで、物語自体もつぎはぎだらけなんですよ。当時は、自分オリジナルのもの、みたいなものにほとんど魅力を感じなくなった時期で、そういうやり方を試したかったんでしょうね。

――周囲の人のアイディアから物語が出来上がっていくというのは、狙ってそうしたというより、自然とそうなっていったんですか。

青山 多摩美に行ってみたら、ああいう人がいた、こういう人がいた、という感じで、偶然の出会いのようなものが大きかった気がします。『かもめThe Shots』では舞台セットを骨格だけで見せたわけだけど、これも大沼と山本を中心にみんなからの意見を出し合って出来上がっていったもの。俳優陣は、大学の俳優コースに十数人くらいいたのでそこから声をかけて、あとは卒業した人も連れてきてキャスティングしていきました。

――映写技師とエージェントとか、ピカピカ教授という人物などどれも特異なキャラクターですが、これらはセリフに誘発されてつくられていったんでしょうか。

青山 そこはキャスティングから生まれてきたものだと思いますね。山本圭祐然り足立理然り、毎週飲みにいってはぐだぐだしゃべっていた仲だったから、そういう関係性のなかでキャスティングするとだいたいどういう人物を演じさせたらいいのかが見えてくるんですよ。セリフ自体もほとんど酒の席で交わした会話から拾ったものだし、だからこの人が言わなそうなことは自然と入ってこない。アドリブではないけど、彼らがこう言いたいってことに対してはいっさいNGは出さなかった。

――タツミ(足立理)が映写技師K(山本圭祐)に「(車から)降りろ」と言うときのウィンドウの縁を指でとんとん叩く動作とか、ああいうのは青山さんがつけた動きなんですか。

青山 たぶんそう。それか足立が何となくそういうことしたの、見てたか。とにかくその場の思いつき。一輪車を突然ふいっと消すのとか、本当にくだらなくて楽しかったですね。

――ピカピカ教授の異様さや、みんなが集まる不思議な酒場などは、どこか『こおろぎ』(2006)にも通じていませんか。

青山 言われてみればそうかもしれない。ああいうことをいつもどっかでやりたがってるんでしょうね。酒を飲めなくなって自分の作風がずいぶん変わってきたから、いまなら全然違うものをつくるだろうなとは思いますけど。

 

■『かもめThe Shots』とキャスティングの話

――『かもめThe Shots』では、とよた真帆さんや髙橋洋さんなど、大学の外からゲストも招いて、チェーホフの戯曲の映画化、という1作目とはまたずいぶん変わった方法になりましたね。

青山 本来僕はロケが好きで、撮る場所が何より好き、という人間だったんですけど、『かもめ』では場所はほとんどどうでもいい、柱と家具だけあれば何とかなるからという感じで芝居をつくっていったんですね。大学で授業を始める1年程前、2011年6月に『グレンギャリー・グレン・ロス』という舞台を演出したんです。そこから俳優さんを演出すること自体に非常に強く魅力を感じるようになっていって、一番何にもないところに向かっていくとどうなるかをやってみたかった。といっても、これもゼミ生たちがいろんなものを持ち込んで計算されたセットをつくったり、凝った衣装をつくったりするうち、最終的には何もないとはいえない見事なものになりましたけど。そういう美術関係を彼らに任せられたことで、自分は俳優を撮るためにどれだけシンプルにやれるかを試せたな、という気がします。

――そもそもなぜ『かもめ』だったんですか?

青山 これは直接的なきっかけがあって、それは京都の劇団「地点」との出会いです。大学の授業の合間にNHKの番組で僕がインタビュアーで何人かの演出家に話を聞くというのをやったんだけど、その中に「地点」の三浦基氏もいて。彼らの仕事を見て刺激されて、同時に演劇は自分はもういいや、と映画に戻って行く気にもなったし。
一方で制作の過程としては何よりキャスティングありきだったんです。ニーナ役の川添野愛がまず決まって、そこから他の人を決めて頼んでいったんですね。シャムラーエフ役だけ決まっていなかったから、じゃあ自分でやろうかと。最初から自分は出るつもりでいた、というかこの3作では必ず何か演じることを自分に課していたので。「なんで?」って聞かれると困るんだけど(笑)。

――キャスティングは基本的に青山さんがおひとりで決めていったんですか?

青山 ええ、僕が好き勝手にやってたと思います。ふだんの仕事では僕の好き勝手に決められるなんてことはまずないから、『FUGAKU』は徹頭徹尾自分の本意でキャスティングすると最初から決めていました。『さらば愛しのeien』でギター弾いてる酔っ払いの役(自分)なんて「書いてないけどあて書き」みたいなもんですから(笑)。

 

■どうやってセリフを言う俳優を撮るのか

――最初から30分か40分くらいの作品にする、ということは決まっていたんですか。『かもめ』はそのために戯曲の全部ではなく、少しずつ場面をつまんでつくっていますよね。

青山 本来このシリーズは、「たまふぃるむ」という多摩美の映画祭で毎年1本上映するつもりでつくっていたんですが、最初から3本を合わせて上映して1時間半くらいの上映時間に収まるようにしようと目論んでました。『かもめ』は有名な戯曲だからみんなどういう話かわかってるから、その一部を使って40分くらいにおさまればよし、ということで。

――『かもめ』で青山さんがやろうとしたのは、演劇を撮るのはこういうことだ、という方法論を見せることだったんでしょうか。

青山 演劇を撮るってことではなくて、どうやってセリフを言っている人を撮るかをやってみた、と言えばいいのかな。撮影のなかで、俳優がどういう顔でそのセリフを言うかっていうのが一番重要だと僕は考えている。ベーシックすぎてわかりにくいですけど。じゃあそのときにどういう基準でこれはNGでこれがOKだという判断を下すのか。それはもう言葉では教えようがない。カンです。ただ僕がそうしているのを見て、学生がなんとなくでも理解してくれればいいなと。『かもめ』の撮影で核としてうっすらと考えていたのはそういうことだと思う。だから最も信頼するプロの俳優たちにも来てもらって。

――『1』ではTwitterからの言葉を引用して、『2』では戯曲を使って、というように全体の構成や物語は最初から決めてあったんですか。

青山 これをやろうってことはその都度行き当たりばったりのように決めていったのかな。ただ最初から3本くらいならできるだろう、それをこう構成しようっていう考えはぼんやりとですけどありました。自分が多摩美で教え始めたのと同時に、映像演劇学科が4年目(2016年)で終わると決まったんです。となると最初の1年があって、残り3年で年に1本ずつ、3本つくれれば自分の使命はまっとうできるかなと考えたんですね。

――『かもめ』ではずっとスタジオのセットで撮っていて途中で外に出ていくというのは、何か理由はあったんですか。

青山 具体的な理由はたぶん天気が良くて光がいい、くらいのことだろうけど、あのシーンを見直すといつも吉田喜重監督の『戒厳令』(1973)を思い出すんですね。たぶん当時テレビでちょうどやってたのを見直して、ああこういうことしたいなと思ったのかもしれない。なるべく人様のモノマネをするのはやめようと思いながら撮ってるわりには、モノマネだらけの3本でもあって。まあこうやってネタ元がすぐバレちゃうことも含めていいかなとは思ってるんだけど。

――富士山のシーンも少しだけ出てきますよね。あそこは別で撮りにいったんですか?

青山 あんなことをするのでつまらない場所で撮りたくないなっていうのと、富嶽だからってのもあって、みんなのスケジュールが合う正月に山中湖に行って撮りました。原作も湖のほとりじゃなかったかな?

――富士山が出てこないのは3作目だけということですね。元々『FUGAKU』というタイトルはどういうふうに決まったんですか。

青山 大学の施設が山中湖の近くにあったから、タイトルを『FUGAKU』にして3作とも毎年夏休みにこの施設で撮ろうというのが最初のアイディアでした。ただこの施設が『犬小屋のゾンビ』を撮ったあと解体するか何かでもう使えないってことになってしまった。幸か不幸か、上野毛の校舎に演劇のために使える小ぶりのスタジオがあったから、『かもめ』ではそこを使うことができました。『さらば愛しのeien』は当時借りてた僕の個人事務所と校舎内を使って撮りました。最後のレコーディング風景も大学のスタジオを使っています。「富嶽」っていうと葛飾北斎(『富嶽三十六景』)ですかって言われるけど、僕にとっては太宰治(『富嶽百景』)なんですよ。別に太宰が好きなわけではないけど『さらば愛しのeien』まで含めて太宰なんだよと言えるかなと(笑)。

 

■ドキュメンタリーとして制作した『さらば愛しのeien』

――実はモノマネだらけの3本なんだ、ということですが、私がまずぱっと浮かんだのはニコラス・レイ『ウィー・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(1976)でした。

青山 まあピカピカ教授作品の上映形態そのものが『ウィー・キャント〜』ですから(笑)。レイの映画のように巨大スクリーンに映すものまではつくれなかったから、代わりにビカビカ光らせてみたわけですけど。撮影時間はものすごくかかったけど面白かったですよ。夜更けに雨もざあざあ降ってきたり。

――『さらば愛しのeien』で青山さんが学生たちと話してる感じも、ニコラス・レイが若い映画学校の生徒と話してうまく噛み合わない場面とどこか通じるように思いました。

青山 でも映画学校ってだいたいまあ似たような感じになるんじゃないですか。

――学生と先生の関係がそういう形になっていくものだ、ということですか。

青山 映画学校って普通の社会とはまったく違う関係で成り立っているような空間だし、教員と学生との関係も大学って高校や中学とは全然違う。そういう特殊な関係を映しておきたいってことは漠然と考えていたのかな。それ自体長い長い合宿生活とでもいうか。これは全く関係ないんですが、ちょうど多摩美に入った年に僕の母が亡くなって、多摩美をやめた年に父が亡くなったんですよ。だから『FUGAKU』を撮る周辺の5年間は、教師だった自分の両親と別れる5年間でもあって、その間に自分が大学で教師をしてたんだっていうのは、改めて思うと面白いもんですね。

――『さらば愛しのeien』は、研究室でのシーンがドキュメンタリーパートで銃撃シーンはフィクションパートに当たるのかなと思っていたんですけど、先ほど青山さんは「撃ち合いの部分もひっくるめてドキュメンタリーとして考えていた」とおっしゃいましたよね。それは、この映画には彼らと過ごした時間そのものが映っているからですか。

青山 そうですね。数年かけて人間関係をつくりあげて、芝居をやるように呼吸して生きている自分の状態を撮っていたってことだと思う。だから一つの楽曲を作って行く過程のドキュメンタリーであり、数年がかりでつくったフィクションだとも言える。ドキュメンタリーなのかフィクションなのかってところまで行けたらいいよねってことは最初から思ってたんですよ。そのためには自分が飲兵衛になるしかない、グダグダに酔っ払ってる俺とやつらを映すしかないと。

――なるほど、と言っていいのかわからないですけど……。

青山 実際それで死にかけたからね(笑)。撮影の間なんか体の調子が変だなと思って一区切りついたところで病院に行ったら、そのまま集中治療室に入れられて1ヶ月くらい入院してました。

――じゃあ完成前に入院してしまったんですか?

青山 そう、だからスタジオのシーンは復帰してから撮って編集ものんびりやりました。そういうことも全部含めて、あのときあの人たちとでないと撮れなかった3作ですね。

――銃撃戦のパートでは、総裁と呼ばれる人がいてそれを狙う者たちがいて、というストーリーラインがあるわけですが、あそこはちゃんと脚本を用意されていたんですか?

青山 どうだったかな。もう忘れたことも多くて(笑)。ただどうやったら自民党を潰せるかってことをフィクションとして表す一つの方法としてあれがあったというか。本当は総裁の声も全部本人に差し替えようかと思ったんだけど、そこまではできなかった。

――銃撃とはどう撮るのか、どう動いてどう撮るかを学生たちに演習させてみせる、みたいな意識もあったんですか。

青山 いや、「こういう方がいいよ」とか、彼らに何かを教えようなんてことは考えてなかったですね。自分がただやりたかったことをやって、その様子を見て彼らが何か掴んでくれればいいな、という気持ちだったから。

 

■映画を教えることに挑んだ5年間

――2016年に公開された甫木元空監督の『はるねこ』は青山さんの多摩美のゼミ生による作品ですよね。青山さんがプロデュースをされて、出演者やスタッフもみなさん重なっています。これは『FUGAKU』ともつながりのある作品と考えていいのでしょうか。

青山 はい、ほぼ地続きの作品と言えます。さらに2018年の僕の特集上映までが全部つながってるという感じです。自分のなかでは、『共喰い』の撮影が終わり、『空に住む』(2020)の準備が始まるまでの5年間は、なにかひとつながりになった時間、という感覚がある。その間にゼミ生たちも就職したり、川添(彩)のように東京藝大の大学院に行って制作を続けたり、みんなそれぞれの道に進んでいって。

――5年間が卒業までの一区切りという感じだったんでしょうか。

青山 そうですね。元々僕は、大学で映画学科をもしやるなら4年じゃ絶対無理、理論ならいいけど制作には6年は絶対必要だってずっと言ってるんですよ。

――映画美学校のときとは考え方が変わってきたということですか?

青山 映画美学校のときも3年目に研究科がつくられてようやく「じゃあ一緒にやろうか」と言い出せるようになり、4年目、5年目に『AA 音楽批評家:間章』(2005)がつくれたわけで、あまり変わってないかもしれない。やっぱり2年目から徐々に関係ができて、3、4年目くらいに「じゃあやろうか」ということが見えてくる。実際の制作に1年くらいかかり、上映・配給までもう1年。合計6年間が、映画制作を教えるにはちょうどいい数字だと僕は思っています。

――多摩美で教えていた5年間を通して、映画を教えることとはこういうことだ、というような何か答えのようなものはみつかりましたか?

青山 映画を教えるという点では、僕は挫折したなという意識の方が強いのかもしれない。理論はまだしも、映画制作に関して大学で教えるのは不可能だと今は思います。やっぱり違う社会なんですよ。ある人たちを選出して、その人たちと一緒に生きていこうという意識と共に映画はつくられていく。だけどそれは大学教育の枠組みからは離れたものであって、卒業してからやらないと仕方ない。僕のゼミを卒業した人たちに関しても、この先どこかで会ったら何か一緒にやろうよとは思うけど、逆に言えばただそれだけだよな、とも思うし。

――そういう意味で、この『FUGAKU』3作は不可能なことに取り込んだ数年間の記録だったと言えるんでしょうか。

青山 ああそうですね、苦闘の記録というかね。

――先ほど、自分で脚本を書くのが苦痛だったとおっしゃっていましたけど、『空に住む』ではその書けない状態からは抜けたということなんでしょうか。

青山 休んだおかげで、次元が違うところに考えが及んだのかなという気はしますね。あとはその間に演劇をやり、すぐれた古典を勉強させていただいたことも大きかった。そこで違うスタンスを発見できたおかげで、10年近く書くことから逃げ続けた末にまた書けるようになったわけだから。

――『空に住む』が20代の若い人たちの映画になったというのは、多摩美での経験が反映されていると言えるんでしょうか。

青山 何かしらあるんでしょうね。自分が彼らに言いたいこと、あいつにはこう言おう、あいつがこういう状況になったらこう言おう、みたいなことを、登場人物の声を借りて言っているというか。それまでは映画の脚本を書くのはもっとシステマティックに考えていたけど、今は自分に嘘がないほうが楽に書けてる気がしています。5年間、いろんな人たちと付き合わせてもらって、月並みだけど僕の方こそ本当に勉強になりました。人生の特殊な時間をこういう形で残せたことが、なんか奇跡的に面白いよなって、今はそう思ってますね。

 

青山真治監督「FUGAKU」を見る https://vimeo.com/ondemand/fugaku123

 

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