ふたつのことを同時に語らなくてはならない。それが佐向大が二人組の男たちを主人公にする理由である。そしてふたつのことを同時に語るならば、双方の不確実性が同時に0になることはない。それが佐向作品の不変の原理である。
『まだ楽園』の冒頭、雄二と彼女のやりとりはすでに多くのことを語っている。「どのくらいかかるかわかんないから」連れていけないと言う雄二に、それなら仕事はどうするの?と彼女が問い返すと、その答えは「すぐ帰ってくるよ」だ。この矛盾に満ちた会話が単なるはぐらかしや欺瞞ではないことに、観客はすぐに気づくことになる。目的も目的地もスケジュールも曖昧なままにこの旅は始まるが、それは雄二が把握していることを謎として隠しているからではない。いや、謎は謎であるのだろうが、情報が隠されたためにそうなっているのでもなければ、やがて来る謎解きの瞬間の価値を高めるための秘密でもない。彼女を連れて行くには遠く、仕事に支障をきたすことはないくらいには近い。そのひとつひとつは嘘ではないかもしれないのだが、それを同時に語る瞬間、あらゆる確実性が壊れる。『まだ楽園』という、数日間にわたる自動車の旅を描いた映画は、監督の地元である横須賀で全編ロケされている。「すぐ帰って」これる場所で、「どのくらいかかるかわかんない」旅を描く、映画ではなぜそれが当たり前のように矛盾なく成立してしまうのか、雄二はもちろん、私たち観客の誰一人として、その理由を知らない。
もうひとつ『まだ楽園』から特徴的なやりとりを抜き出すなら、雄二たちが自転車の二人組と初めて出会うコンビニの駐車場での電話をめぐるものがある。雄二は昔の友人らしき人物に電話をかけているが、通じない。A「つうか番号変わってるんだよな」、B「留守電には残したんだけど」という連続したふたつのセリフは、俊のツッコミの通り、Aの仮定が正しければBは無意味だし、Bが意味を持つならAではない。作品の物語上はほとんどたいした重要性を持たないと言ってもいいこのなにげないやりとりは、しかし佐向作品の登場人物の逃れがたい性質を克明に示している。彼らはAかBかどちらか一方しか成り立たないということに決して気づかないし、そのふたつの仮定のどちらが正しいのかわかれば導きだせるCという選択肢に絶対に辿り着けない。彼らはAかBかという二者択一を行うことが出来ず、常にAでもありBでもある状態のままにとどまり続ける。
彼らのこの曖昧さ、胡乱さはなにも会話にだけあるのではない。母親の墓(?)参りの後で「今日は飲むか」と言った二人はおそらく酒を飲んだのだろうし、その後のカラオケでは生ビールを3つ頼んだはずなのだった。しかしチカも乗せた車を運転する雄二は、仮眠をとったから大丈夫という感じでも、飲酒運転上等(この作品の制作当時といまでは飲酒運転の罰則がだいぶ違う)というふうでもなく、まるで体内には一切のアルコールの蓄積などないかのようにハンドルを握る。それはどこか『車をさがす』の二人組の散漫な記憶力にも似ている。置いたはずの場所に車がないどころか、車の鍵さえ無くした彼らが、もし他の場所で車を見つけたところでどうするつもりなのかまったくわからないのだが、とりあえず彼らは夜の街を歩いて車をさがす。だが、『まだ楽園』の飲酒にも『車をさがす』の車の紛失にも共通する不確かさは、当人たちの記憶や認識の信用ならなさとは別に、もうひとつ存在する。それは決定的で不可逆な出来事が起きたことを示すショットがないということだ。車は我々の目の前で「なくなっ」たりはしない。父親の工場で、雄二が殴打するような音と共に行う行為はフレームの外だ。そして『ひとつの銃声』の拳銃が放つ「ショット」を捉えたショットはなく、常にその前と後があるだけだ。
それにしても、選択を行わず、経験を蓄積もせず、まるでその都度々々のシチュエーションに流されているだけに見える彼らが、曲がりなりにも一応の目的に向かって進んでいるのはなぜなのか。それはまさに彼らが文字通り流されているから、彼らを運ぶ運動の上に乗っているからである。『車をさがす』の男たちは、夜が来たから帰るために車が必要になる。それまでは車はあってもなくても別にかまわないものだった。拳銃を拾ったことすらさして話題として盛り上がるわけでもない『ひとつの銃声』の登場人物たちを前に進めるのは、合間に挿入され、ひとつずつ増えていく数だ。そして『まだ楽園』の男たちを動かすのはタイヤの回転であり、おそらく唯一この物語のはじめから旅の目的地をはっきりと示しているのは、男たちの迂回に次ぐ迂回の中心で回転運動を続ける裁断機だけなのだ。処女長編『夜と昼』のタイトルがすでに示していたように、佐向大の作品を駆動させるのは絶え間ない回転運動であるのだが、登場人物たちはそれが運動であることにほとんど気づくことがない。『まだ楽園』の裁断機は自己増殖の果てにやがて『ランニング・オン・エンプティ』の工場街になるだろう。そして背景として広がる世界の自律的な運動に気づかない住人たちは、どれだけ走ったつもりでも、ベルトコンベアー状の地表の上を空転するだけだ。
しかし、作品世界を支配する揺るぎないはずのメカニズムは登場人物たちがその身をもって体現する不確かさによって、しばしば揺らぐ。あるいは、果てしない規則的な回転という世界の法則こそが、人々を常に未決定で曖昧な状態に置くと言ってもいいのかもしれない。大きくぐるりと回ってきたはずが、そこは同じ場所。しかし同じ場所のはずが、さっきまでとなにか違う。自動車と自転車、その速度の違いと時間が生み出すはずの距離を、雄二と俊は一切蓄積することができないので、オサムとユタカに何度も何度も追いつかれることになるだろう。『ひとつの銃声』のカウントアップは、まるで胡乱な登場人物が数え間違えでもしたかのように、4を飛ばして5になり、また4に戻る。そして『車をさがす』の車は、さがすという行為とはまったく無関係に、まるではじめからそこにあったように、ある。
存在と不在、原因と結果、前進と後退(あるいは停止)、それらが絶えず交換を繰り返しながら同時にある。だから我々にはその相反するふたつの要素を価値づけることができない。AかBかという選択肢を選ぶことができない彼らを、そのどちらの選択肢がより正しかったかなどと判断することができない。彼らはあまりにもちっぽけな存在なので、この絶え間なく回転する世界がまもなく終わり行くものだと気づいたところで、それに気づくこともなくぼやぼや生きている人間と同じ程度のことしかできない。彼らの認識は取り返しがつかないほどに遅すぎ(ヒデが探していた車について言及するのは、それがフレームから消え去ったはるか後だ)、曖昧さと無意味さと嘘の中でなにひとつ確かな判断を下すことができないでいる。だとすれば、この不確かでなにも信用ならない人々の住む世界は、私たちの住むそれとなにが違うというのか。
彼らはしばしば罪を犯し、不道徳な行いをし、ポリティカリーにコレクトではなく、その上そうした自らの行為一切に無自覚で無責任だ。それでも彼らは、AとBとの二者択一によって一方を完全に排除することだけは絶対にしない。それを人に強いることもない。倫理と呼ぶにはあまりに薄っぺらな、彼らに残されたギリギリのなにかは、しかしどこか現代の我々にこそ必要なものにも思えてくる。どうして善悪や真偽や正誤で物事がすべて二分できると思ったのか。どうしてそのどちらかのサイドに属すことを強いられねばならないのか。絶え間なく回転する世界の上で前進と同時に後退する彼らは、それに全力で抗う。
あの空き地をぐるりと回る短い時間の間で、俊は正しいのか間違っているのか我々には判断のつかない決断を下す。「一度言やわかる」はずの雄二は、かつて殴りつけられた男にリベンジを試み、まったく同じように殴り倒される。そして、なぜかわからないほど清々しく笑う。『まだ楽園』という作品タイトルが映し出される直前、トンネル内を走る車のフロントガラスに、トンネルの外の景色が二重露出のようにくっきりと浮かび上がる。車の後方に通り過ぎた過去が、フロントガラスの上に来たるべき未来が、同時に存在する。主を失ったはずの裁断機は再び回転を始めるのだから、それは世界の終わりでもなければ、世界に対する勝利でもない。ただ、どこまでも規則的でだからこそ不確かな世界そのものに、彼らはなる。