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あるけどない、いないけどいる
佐向大インタビュー

5月13日(金)より最新作『夜を走る』(http://mermaidfilms.co.jp/yoruwohashiru/)が公開される佐向大。GHOST STREAMでは、『夜を走る』との関連が色濃い初期三作品、『車をさがす』『ひとつの銃声』『まだ楽園』を配信する。二人組で行動する男たち、車の窓の向こうを流れていく風景、そして時折垣間見える、死や世界の綻び。謙遜とも韜晦ともとれる監督の語り口から、作中の両義性と矛盾と曖昧さに満ちた会話の影が浮かび上がる。同じところをぐるぐる堂々巡りするかに見えるやり取りのその先に、待ち受けるのは果たしてなにか。(聞き手・構成:結城秀勇/取材日:2021年11月22日)

 

■天井を見つめて、「映画を撮らなきゃ」と思った

ーー今回配信される作品は、商業映画の監督としてデビューされる以前の、自主制作の映画です。2000年代以降、デジタル機材の普及とともに自主制作の敷居は下がったとはいえ、普段の仕事の傍らで長編映画まで作り、劇場で公開されるというのは、それほど数多い例があるわけではない。佐向監督の場合は、どういった状況でどういった動機で作品づくりをされていたのか、制作の背景をうかがえますでしょうか。

佐向 学生の時に撮影した『夜と昼』という長編作品を神奈川県映像コンクールに応募したんです。その作品が審査員特別賞をいただいて、しかも大島渚監督が審査員長で、審査員には山根貞男さんがいらっしゃったりと錚々たる方々だったんです。
でも受賞した後で、既成の曲は使用料がかかると言われまして。当時はそんなことすら知らずに洋楽を大量に使っており、そういった理由で今回『夜と昼』は配信できないのですが(笑)、じゃあ今度は既成曲を使わないものを作ればいいのか、と思ったのです。
その間に卒業して、ケイエスエスという映像会社に入社しました。本当は制作部に行きたかったものの宣伝部に配属されて。入社直後は忙しくて、映画を作る余裕はなかったのですが、だんだん落ち着いてくるとやっぱり撮りたいと思うようになった。制作部には当時オフラインの機械が置いてあったのでそれで編集できると思い、使い方を教えてもらって完成させたのが『車をさがす』です。音楽が一切ない短編です。
キャストは当時そばにいた人たちですね。友人のデザイナー、倉茂(透)くんをはじめ、大学の同級生、会社の同僚に声をかけて。加えて『夜と昼』にも出てもらった小川登、彼は今回配信される三作品すべてに出てもらっていますし、前作『教誨師』や最新作の『夜を走る』にも出演してもらっています。

ーー製作年としては、『車をさがす』の次が『ひとつの銃声』になるのですが、5年ほど間が空いていますね。

佐向 撮影自体は『まだ楽園』が先なんです。『まだ楽園』の撮影を一年くらいかけてやっているんですが、『ひとつの銃声』は『まだ楽園』の編集中に撮影して完成させた短編です。

ーーでは先に『まだ楽園』の制作背景をうかがえますか?

佐向 20代後半にケイエスエスを辞めて、一時期映画から離れてアパレルの代理店にいました。それなりに楽しくやっていたのですが、正体不明の体調不良というか、腰に激痛が走って一週間立てなくなったり、肺炎になったり、30歳を手前にしていろいろと体に不調が起こったのです。それで腰を痛めて寝ている時に天井を見ながら、これはやりたいことをやれていないストレスのせいかもしれない、今こそ映画を作らなきゃいけないんじゃないかと。同じ頃、親友が急逝したこともあり、やりたいことをやろう、とにかく脚本を書いて一本作ろうと思った。それが予想以上に撮影にも編集にも時間がかかって、完成までだいぶ時間が経ってしまいました。

ーーその間に『ひとつの銃声』が制作されたと。

佐向 当時、とある宣伝会社に所属していたんですが、そこで東京ファンタスティック映画祭の宣伝を請け負っていたんです。その映画祭で10分の短編作品を募集するコンテストがあり、もうすぐ締め切りなのに応募作品が全然集まっていないとお昼を食べていたときに映画祭を担当していた同僚から聞き、じゃあ作ろうと。1日で脚本を書いて、たしかその翌週ぐらいに撮影してすぐ編集して作ったのが『ひとつの銃声』です。

ーー『まだ楽園』は、いま思えば佐向監督の自主制作時代の集大成とも言える作品かと思うのですが、完成した作品をどのように上映するかという見通しはあったんでしょうか?

佐向 出演者たちにはこれでカンヌ行こうって言ってましたが(笑)、その頃にはもう映画の宣伝も経験していたので、ある程度の上映までの道のりはわかっていたんですよね。なので試写室を借りて、いろいろな人に見てもらったりしました。その先に劇場公開ができたらいいなとは思っていましたが、『まだ楽園』に関してはとにかく映画を作らなければという根拠のない使命感に駆られてやっていたので、そこまで具体的な見通しがあったわけではありません。

ーーこの三本を通して見ると、各作品に共通する要素がかなりあると思います。そのことについては後ほど詳しくおうかがいしますが、作っているときになにか前作からの発展のようなことは意識されていたんでしょうか。

佐向 既成曲は絶対使わないぞ、と(笑)。実は『車をさがす』も、神奈川県映像コンクールで『夜と昼』と同じ審査員特別賞をいただいたのですが、後に聞いたところによると、前作の『夜と昼』ほどは評価されなかったらしいです。ただ、大島監督だけが強く推してくれたから賞が取れたと言われました。僕自身、当時は短編よりも長編の方が資質的に合っていると自覚していたこともあり、『まだ楽園』ではしっかり長編と向き合おうという意識はありました。それくらいですかね。今回の配信にあたって三本を見直したのですが、結局20年経ってもやってることがまったく変わらないことに愕然としましたが(笑)。

 

■同じ場所に来たはずが違う場所

ーーでは一本ずつ詳しく話を聞いていきたいんですが、『車をさがす』はどの程度が脚本に書かれた通りなんでしょう?

佐向 あまり覚えていないのですが、撮りながら変えていった部分は多いと思います。公園でホームレスの方が絡んで来たのでそのまま使用したり。

ーーですよね、あれが脚本通りならビックリです(笑)。

佐向 『車をさがす』に関しては、その時その時の状況に身を任せつつ、夜の間長時間撮影していた記憶がありますね。

ーー当初の脚本とは構成も変わっている?

佐向 この作品に限らず今回の三本ともに言えるのは、脚本段階ではもっと完全に円環構造というか、完全にファーストショットに戻るようなものを書いていました。でも、撮影・編集を経ると、どうしてもそんなにきれいに終わりたくない気がしてしまう。完全な円環ではなくて、穴が空いて漏れ出していく感じというか、同じ地点に戻りつつも、どこか歪な円を描くような形になる。
『車をさがす』に関して言うと、ラストカットが終わったら、冒頭に向かって全く同じカットを今度は無人で同じ時間をかけて遡っていこうと考えていたのです。つまり尺は2倍になる。

ーーそのアイディアを実行して、いわゆる「実験映画」的な作品にする可能性もあったように思えるのですが。

佐向 素晴らしいアイディアだと思ったのですが、一体そんなものを誰が観たいだろうかと(笑)。もっと言えば、作っている自分としてはおもしろいけど、それを見る自分がおもしろいかというと、確信が持てなかったということかもしれません。
当然ではありますが、自分が客として観たときにおもしろいと思えるものを作りたいと常に心がけているものの、それは他人にとっても魅力的なのだろうか、一般に受け入れられるのだろうかという恐怖心や不安は毎回、いまもありますね。

ーータイトルは『車をさがす』ですが、あまり探してないですよね。

佐向 もちろん探してることは探してるんですよ。車はどこかにはあるはずで、画面には出てこないけどある、あるけどない……、という中で彼らの行動が車を探すという目的から外れていって、なんのために歩いてるのかという理由自体もなくなっていく。そして最後に唐突に、目的が達成される。まあ達成したと言っていいのかわかりませんが、とにかくそこに至ったときに、ある行為があって結果が導かれるのではなく、そこまでの過程とは無関係な結果がある。それまでの行いがまったくの徒労になる、いや徒労というのですらなくて、それ以降と完全に分断されてしまう。
その空虚さのようなものは、現在まで続く要素だなと。

ーー続いて『ひとつの銃声』についておうかがいします。この作品は、拳銃を拾うところからスタートしますが、観客にとってまず明らかに気になるのは、拳銃がどうなるのかなんてことよりもとりあえず「なんで上半身裸?」ってことですよね(笑)。ところが無意味なギャグかと思ったものは、この作品の構造に関わることでもある。

佐向 あの作品は「メビウスの輪」みたいなものを作ろうと思ったんです。さっき話したように、お昼を一緒に食べていた同僚たちと三人で作ろうということになったんですが、上半身裸の男を演じてくれた三上(剛)くんが、まだ何も話が決まっていないにも関わらず「映画に出るのはいいけど、絶対裸にはならない」って言いだしたんです。「どうしてもそうする必然性があればしょうがないけど」と人気女優のようなことを言ったので、「じゃあ必然性を作ろう」と思ってそこから物語を考えました。台本を読んで「本当に意味あんの?」って言われたので、「あるよ」って(笑)。ないんですけどね。

ーーこの作品には基本的に銃を撃つカットはないし、だから本当に殺してるのかどうかも分からない。

佐向 スタッフは自分だけだし、ほとんど三人で撮影しているので、アクションをやろうとははじめから考えておらず、構造を見せるというところに楽しみを見出していたんだと思います。
『車をさがす』も同じ場所が繰り返し出てきたり、最初と最後が同じ場所だったりしますが、同じ場所に来たはずが違う場所、みたいなことがさっき言った「メビウスの輪」で。ぐるっと回って一周したはずが、たどり着いたのはスタートした場所の裏側で、そして結局、どっちが表でどっちが裏かということさえもなくなってしまう。それは最新作の『夜を走る』でも同じようなことをしているなと思います。

 

■二人で一人

ーー『まだ楽園』についてもお話を聞きたいのですが、この作品は今回の三作品に共通するテーマの集大成のようなところがあります。まずお聞きしたいのは、主人公が男性二人組なのはなぜなのかということです。

佐向 ずっと一貫してるのは二人で一人であるということです。交換可能な存在というか。それが話を考える時にいつも念頭にある。
二人の個性の違いで見せるバディムービーを撮ろうと思ってるわけではなくて、二人組であることで付いて回る余計な意味みたいなものは、なるべくないほうがいい。例えば、男と女の二人組だとどうしてもラブストーリー的な含みが出ちゃいますよね。あるいは年齢が離れた二人組、年配者と若者とかだと、年配者から若者がなにかを継承して、でも実は年配者も若者に教えられる、みたいな物語になってしまったり。もちろんそれ自体としては魅力的な話だと思うんですけど、そういうことを狙っているわけではない。ただフラットに二人組である方が、自分がおもしろいと思うことを描きやすいんです。協力してなにかをするというのですらなく、言ってみれば一人二役ならぬ、二人一役とでも言うか。

ーー処女作『夜と昼』は群像劇でしたが、今回の三作で交換可能な二人組の話が次第に発展して、『まだ楽園』で行き着くところまで行く、という気がします。

佐向 確かに、二人組のモチーフとしてはこの三本が特に強いですね。もしかすると加えて『夜を走る』もその延長上にあるのかもしれません。

ーー『まだ楽園』では、構造というか物語のレイヤーがかなり複雑化しています。まず男が二人いて、彼らとすれ違う別の二人組がいて、さらにそれとは別に主人公のドッペルゲンガーらしき登場人物もいる。

佐向 もちろんメインの二人組は雄二と俊なのですが、その二人で行動しているのとは別に、雄二は過去というものとも一緒にそこにいるというイメージを持たせたかった。
ただ複雑化させようとする意図はないんですよ。言ってみればバンドでひとつの曲を作る感覚に近いんじゃないかと思います。ひとつひとつの楽器を鳴らせ、全体を通してメロディとかリズムとかいろんなものを反復させようとして作った結果こうなった、みたいな。主人公たちがいて、自転車のふたり組がいて、お互いにお互いを反復してるようでもあり、でもその中でズレが生まれていくというか。

ーー今回の三作に共通するのは、二人組であることの他に、自動車という要素もあります。

佐向 純粋に移動する風景が好きなんですよね。フロントガラスからの風景だとか。車窓の外の風景には開放感があるのに、車の中は閉塞している。その矛盾した感じがおもしろい。人間が同じ方向を向いて閉ざされた空間に入ることって、他ではなかなか起こらない異様な状況という気もしますしね。並んで座って、同じ風景の中に入っていくって、日常生活では車に乗るときと映画を見るときくらいかなと。

ーー自動車について今回見直して驚いたのは、いつも車が誰のものだかよくわからないことなんです。いやわからないわけではないんですが、誰が所有しているのかという感覚がどこか希薄で、所有者じゃないはずの人間も簡単に運転席に座る。『まだ楽園』だけじゃなくて、『ひとつの銃声』も簡単に運転手が入れ替わる。

佐向 本当ですね。言われてみるとたしかに、所有してるっていう感覚はないですよね。いったいどっちの持ち物なのか、わからない。それは先ほど話した交換可能という話と同じではあると思うんです。
さらに言うと、この車種だとか、この形とか、メカニックな部分に対しては、映画を作る上ではあまり興味がないんですよ。むしろいわゆるかっこいい車は、意味が生じるような気がして出したくない。そのキャラクターを補完するときは別として、主人公が乗るのはなるべくありふれた車がいい。

ーーそして『夜を走る』で活躍する車は、誰のものでもない社用車でした(笑)
さらに佐向作品の車が奇妙なのは、それによってどれだけ遠くに行けるのかもよくわからないところです。『まだ楽園』も『車をさがす』も、主人公たちが車で行ったはずの場所に、オサムは自転車で行けちゃう。『まだ楽園』は一見ロードムービー風のどこか遠くへ行く話のようですが、すべて横須賀でロケされていて、そのことと作品自体の構造には大いに関係がある。

佐向 移動の手段であるのは間違いないのですが、目的地に行くための道具ではないんですよね。違うステージへの橋渡しというか、単に距離的に遠いところという意味じゃない。境界線を越えて、どこか別の現実に行くのに必要というか。

 

■回転と回り道

ーー『まだ楽園』冒頭の、雄二と彼女の会話がとにかく印象的です。彼はすぐ帰ってくるのか、こないのか、さっぱりわからない。このシーンに代表される、両義性、矛盾、曖昧さを含んだ会話は、佐向作品の魅力のひとつという気がします。

佐向 もちろん映画なので、登場人物たちがなんらかの目的を果たすためだったり、目的地に向かって進むために台本を書いてはいるわけです。ただ、たとえば『車をさがす』で、車を探して歩いているうちに彼らの本来の目的がなんなのかよくわからなくなっていくのと、会話も同じ構造でできているんだと思います。どこかに向かってはいるのだけど、もともと探していた答えを導き出すためではなくなってしまう方が書きやすいというか、書いていて楽しいのです。そういう意味では『教誨師』では正反対のことをしたので、大変でしたね。

ーーそうですよね、『教誨師』はほぼ密室の会話だけで構築される対話劇でしたから。ただ、曖昧さを持った会話の方が書きやすいと言われると、意外な気もします。

佐向 現実の会話がそうじゃないですか。話してるうちに何について話していたのか分からなくなってくる。まあ僕だけかもしれませんが(笑)。とはいえ、いわゆる「リアル」に見えるようにわざわざそうしているのではなくて、『まだ楽園』の時は、意味が形骸化していくということを特に意識してやっていました。出演者たちが演技のできる人たちじゃなかったのがよかったのかもしれません。彼らは役作りなど考えずにやってくれたので、いい感じに意味が抜けたところもある。『まだ楽園』の冒頭の「すぐ帰ってくるの?こないの?」みたいな会話を、「これはどういう心境の変化なんですか?」と聞かれても説明のしようがない(笑)。
この間指摘されて衝撃的だったんですが、実はこれまで自分が撮ってきた映画の中で、男性同士とか男性と女性の会話シーンは撮っているんですが、なんと一度も女性同士の会話を撮影したことがなかったんです。

ーーーえ!そんなことってあるんですか!

佐向 確認してみたらほんとにそうだったんですよ。先日短編を監督する機会があり、初めて意識して女性同士の会話を脚本に書き、撮影しました。まあ意識してやることではないのですが(笑)。会話の内容はいつもと同じような感じなのですが、とても楽しかったです。

ーーそうした、この目的のためにこれをして、それがさらにこうなる、といった具合に最短距離を突き進むわけではない佐向作品の会話や構造のリズムはどこからきてるんでしょう?語弊がある言い方かもしれませんが、90年代の日本映画的というか……。

佐向 どこからきてるんでしょうね。まわり道や寄り道ばかりしていた20代の頃から何も成長していないから、未だに90年代を引きずっているだけなのかもしれません(笑)。でも最短距離で見せるのであれば、わざわざ映像にする必要もない気がします。例えば北野武の映画でも一番魅力的なのは、物語と関係がないような無駄な時間と言うか遊びの時間だったりするわけで。90年代というとケリー・ライカートの特集上映を見に行ったんですけど、とてもおもしろかったですね。彼女の作品にはものすごくシンパシーを感じました。とりわけ『ミークス・カット・オフ』と処女作の『リバー・オブ・グラス』。『リバー・オブ・グラス』には懐かしさを感じたというか、今の視点から見ると多少ずれていたりダサかったりする部分が多々あるのですが、風景とか会話とかあの映画のすべてが、とにかく「ああ、わかる」という感じがしました。

ーー『まだ楽園』の冒頭で、メリヤスの機械が出てきます。あれがこの映画の核をすでに描き出している気がします。『ひとつの銃声』がメビウスの輪だという話がありましたが、この機械も延々と回転し、それがタイヤの回転と重なり合う。同じ場所をぐるぐるしているのかもしれないし、もしかして気づくと違う場所にいるのかもしれない。

佐向 あれは布を断裁する機械です。当時祖父がメリヤス工場を営んでいたのでロケ場所に使わせてもらいました。深く意味を考えてあの工場を選んだわけではないのですが、あの回転が車輪の回転ともつながっていって、結果的には必然的だったのかなと思います。

ーー回転こそが佐向監督の作家性なんじゃないかと思うんですよ。

佐向 どこかに向かいながらも、同じことを繰り返す。でもそれは決して全く同じではない。さらに映画が終われば、見た人たちは当然現実の世界に帰っていくわけなのですが、今観ていたものと同様、現実の世界でも結論を先送りしたり保留しながら同じような毎日を繰り返す。どちらが現実でどちらが映画だか分からなくなる、とまでは言わないまでも地続きであってほしいとは思いますし、すぐに目的にたどりつかないからこそおもしろいのではないでしょうか。

ーー果てしない循環を越えてどこかにたどりつかなきゃいけない、でもそんなに簡単にたどりつけても困る……。

佐向 『まだ楽園』では、雄二を演じた中村英司にはとにかく人と目を合わせないようにしてほしいと常に言い続けました。会話をする時も基本的には誰とも目を合わせない。その彼が最後に初めてバックミラー越しに観客と目を合わせる。目を合わせるけど、それはあくまでバックミラー越し。前向きだか後ろ向きだかよくわからないですけど、とにかく彼はこれからも走り続ける。ただこれまでとは違う場所に向かうんだ、というところははっきり描こうと思いました。

 

■恐怖と笑い

ーー『まだ楽園』は、なんでもない道路とその脇にあるコンビニといったありふれた普通の景色を撮っているのですが、どうもその背後ではなにか大変なことが起こりつつある空気になっている。ラジオは不穏なニュースを流し、自転車の二人組は主人公たちが知らないことを知っているようでもある。

佐向 自分の中では明確に、世界が終わりつつあるという意識があるんだと思います。『まだ楽園』を作っていた2000年代初頭もそうだったし、それから時間が経った現在でもそうです。現実としてはいまの方が前よりもっとひどい状態になってるかもしれませんが、本当にいつなにが起こるかわからない、という感覚は当時もいまもまったく変わりません。
劇中では、世界の終わりと隣り合わせの状況に登場人物たちはいるんですが、主人公たちはそのことに気づいていなくて、自転車の二人は知っている。知っているのだけれど、じゃあその二組の間でなにが違うかと言うと、別にそんな大きく変わるわけでもなくて。ただ、知っている者と知らない者とが並走している。
このテーマは初めての商業映画『ランニング・オン・エンプティ』に引き継がれています。工場地帯を舞台にした映画なんですが、そこに住んでいる人たちはこの工場がなにを作っているのか、なにも知らないし考えもしないんじゃないかというところから発想した作品です。もしかするとそこにあるのは原発とかなのかもしれない。でも登場人物たちは、背景としてのそれらの工場をまったくないものとして行動している。大きな世界と小さな世界が関与しないまま隣り合わせにある。

ーー世界の終わりとか殺人とかの恐怖が潜在的に存在しつつも、『まだ楽園』の表面的なトーンは殺伐とはしていません。むしろユルくて、どこか笑える。同じように、『ひとつの銃声』も銃声自体はズキューンという軽い感じで、カットが変われば人が倒れている。そんな軽いものかと見ていくと、最後にTシャツにべったりと着いている血が妙に生々しくてハッとします。

佐向 『ひとつの銃声』の銃声は構造を見せるために記号として使ってるだけですから。ただ、なぜ彼が裸になるのかがわかるあの場面では、たしかにちょっと衝撃を与えなきゃいけないとは思いました。でも、生々しさとかリアルさを求めているわけではない。自分の作品はほぼすべて人が死ぬんですけど、殺人シーンそのものはないんです。

ーーでも死体は出てくるんですね(笑)

佐向 これ見よがしな残虐シーンや殺人を描くことに興味があるわけではないけれど、死体は好きという(笑)。魂のない人間の抜け殻という、人間が存在するのかしないのかの微妙なラインがいい。ごろんとその物質が転がってる状態っていうのはおもしろいと思ってるんですよ。

ーー幽霊はどうなんですか?

佐向 『教誨師』のような作品にも幽霊を登場させて、あれはいらないんじゃないかという人もいましたが(笑)、自分にとっては必要だと思っています。生きている人と同じように死んだ人もそこにいる。いないけどいるんです。死後の世界があるかという話とは別に、現在の中に人間の過去がふっと現れる瞬間もあると思うんです。『まだ楽園』の少年時代の雄二が現れるのも同じことです。そもそも『まだ楽園』は、車を運転している人間の過去の姿が助手席に座っていたらおもしろいんじゃないか、と考えたのが発端なんです。

ーー佐向監督の作品にとって、笑いや軽さとその裏に張り付いた死や破壊の恐怖の感覚が重要なんじゃないかという気がするのですが。車に二人の人間が乗っているのと同じように、その両方が常に同時にある。

佐向 『夜を走る』という映画はまさにそういうつもりで作ったのですが、試写を観た人に会場でほとんど笑いが起きなかったと聞かされ結構ショックを受けました(笑)。観ている間、ずっと息苦しくて笑えるような雰囲気じゃなかったですよ、と……。

ーー無茶苦茶笑えるものと怖すぎて笑えないものは、佐向さんにとってはそんな本質的には違わないことなのかという気がしてきました……。

佐向 そうかもしれませんね。同時に、物語のうえで起こる小さな出来事も大きな出来事もすべて同じ価値であるというか。すべてが等価値だと見る人によっては戸惑ったり、ここで笑うべきかどうなのか判断つかないと感じてしまうかもしれない。

ーー今回の三作品も『夜を走る』も、目指しているところに普通にーー普通じゃないけどーーたどり着いたはずなのに、なんだかそれは突如として現れたかのように見えるような作品だと思います。

佐向 それは、いつ世界が終わるかわからないということと少し近いのかもしれないですね。いまこうやって話してる時にも、いきなり核が爆発して終わっちゃうかもしれないし。物事っていうものはすごく唐突に起こると思うので。そして唐突っていつも笑いか暴力、もしくはその両方を伴うものだと思います。その両方を併せ持つのがおもしろいと思うのです。

 
佐向大初期作品集を見る https://vimeo.com/ondemand/sakouworks

 
佐向大
1971年神奈川県生まれ。処女長編『夜と昼』(1995)、中篇『車をさがす』(1998)がともに神奈川県映像コンクールで審査員特別賞を受賞。長編第二作『まだ楽園』は、黒沢清をはじめとする各方面からの絶賛を受け、劇場公開される。『休暇』(2008、門井肇監督)、『アブラクサスの祭』(2010、加藤直輝監督)の脚本を手掛け、2010年に『ランニング・オン・エンプティ』で商業映画デビューを果たす。2018年、大杉漣の最後の主演作となる『教誨師』で高い評価を受けた。

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文=結城秀勇
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