本サイトにて無料ロックンロール動画『喫茶アメリコの夜』が配信中のバンド「Americo(アメリコ)」。2004年の結成以降、シンプルなコードで色とりどりのロックンロールを奏で続けるバンドのこれまでの軌跡を、ヴォーカル&ギター、作詞・作曲を手掛ける大谷由美子さんとともに振り返ります。(聞き手:樋口泰人/構成:黒岩幹子、取材日:2021年3月19日)
Americoのはじまり
――Americoとして活動を始めたのはいつでしたっけ?
大谷由美子 ええと、2004年です。35歳のときでした。それまでやっていたバンドThe Rest of Life[*1]が解散したときに、子供のとき好きだったロックンロールとかアメリカンポップスを真似してやってみようと思って。
――それ以前に違うバンドで活動していたときから、そういう音楽をやりたいと考えてはいたんでしょうか?
大谷 はい、The Rest of Lifeはサイケデリックなロックを演奏するバンドだったんですけど、私自身は12歳ぐらいのときからロックンロールが好きで、その気持ちはずーっと持っていたんです。私が12歳の頃というと1981年なのですが、ちょうどロックンロールがリヴァイヴァルしたころで。テレビやラジオを点けたり、ミスタードーナツに行ったりすると、そういう音楽が流れていたんです。本物の50年代〜60年代のアメリカンポップスと同時に、そういった要素を取り入れて作られた80年代の音楽も流れていました。ファッションやデザインもアメリカっぽいものが流行していて、山崎眞行さんのクリームソーダ(ピンクドラゴン)とか、原田治さんのOSAMU GOODSとか。
――いま思い出したんだけど、boidが事務所を持ったとき、大谷さんがその記念にとベイ・シティ・ローラーズのシングルをくれたんですよ。
大谷 ああ、ベイ・シティ・ローラーズ! 「ロックンロール・ラブレター」のシングルですね。ベイ・シティ・ローラーズが流行っていたのは小学2年か3年の頃です。中学生の兄が聴いていて、かっこいいなあと思っていました。…そう言えば、実家の家族はみんな洋楽が好きでしたね。父はグレン・ミラーやベニー・グッドマン、母はエルヴィス・プレスリーやパット・ブーン。映画も洋画が好きで、家は洋間ばかりで畳がありませんでした。当時としてはちょっとめずらしかったかもしれないですね。それで、家の中でなんとなく洋楽を耳にしていたのですが、横浜銀蝿とかブラック・キャッツが流行ったり、原宿の歩行者天国でローラー族が踊っていることを知ったりしたのが12歳の頃でした。家族は洋楽が好きだったけど、私は日本語のロックにも興味があったんです。大瀧詠一さんの『A LONG VACATION』もリアルタイムで聴きました。自分で初めて買ったレコードはブロンディのベスト盤です。デボラ・ハリーはすごくやさしそうな女の人という感じで憧れました。あと、これはちょっとした自慢なんですけど、初めて観に行ったコンサートがチャック・ベリーだったんです(笑)。
――それはすごい。どこでコンサートやったんですか?
大谷 横浜スタジアムで。中学2年のときなんですけど、RCサクセションが観たくてコンサート情報を調べたら、直近でやるのがサム&デイヴのサム・ムーアとチャック・ベリーと対バンする横浜スタジアムでのコンサートだったんです[*2]。伯母さんが横浜に住んでいたので、母に横浜まで連れて行ってもらって、球場の前で別れて1人で観ました(笑)。そんなロック好きな子供だったんですけど、そのときは自分でロックをやろうとか、自分もできるとはまったく思わなかったです。楽器を弾くのはむずかしそうだし、見た目も声も性格も向いてないと思っていました。…それでもバンドがやってみたくて、高校1年生のとき(1984年)に最初のバンド、クララ・サーカス[*3]をはじめました。私はヴォーカルと作詞をしていて…曲を作りたい気持ちもあったのですが、他のメンバーが良い曲を作っていたので、気後れしてしまって作れなくて。そんなふうに、最初はロックンロールとはちょっとちがう感じのバンドをやっていたんですけど…。20年以上経ってから自分が始めるタイミングが訪れたんですね、きっと。
――そのタイミングがやってきて、具体的には何から始めたんでしょうか? まずはバンドメンバーを集めることから始めたのか、あるいは最初に曲ができたのか…
大谷 まず曲ができたんです。20年くらい気持ちを抱えていたから、なんかぽろって出てきちゃったんですよね、曲が(笑)。そのとき私は今よりももっともっとギターが弾けなかったんですけど、でも曲ができてしまったからすぐにバンドがやりたいという気持ちがあって、それで変則的な編成で始めたんです。最初のライヴは湯浅湾の牧野琢磨くんがバリトンギター、パーカッションにM.A.G.O[*4]のHa*さんというメンバーで演奏しました。当日は全然自分が思っていたように演奏ができなくて、終わった後で落ち込みましたねぇ…。ゲストで出演してくれた湯浅学さんが帰り際にボソッと「おもしろかった」って言ってくださったのをおぼえています。それから、その最初のライヴの後、ロックンロールをやるにはドラムを叩ける人が必要だということに気がついて、大谷昌功さんにお願いしました。
――じゃあ2回目のライヴ以降はもうファーストアルバム(2008年)のメンバーになっていたんですね。ちなみに「Americo」というバンド名をつけた理由は?
大谷 ええと、“America(アメリカ)”を言い間違えて“Americo(アメリコ)”ということだったかな、と思います。もういろいろと忘れていますね(笑)。何か憧れからスタートしたものが、憧れていたものとはまた別のものになっていく、といったことを考えていたような気もします。
――Americoのロゴはミュージカル『アニー(Annie)』のロゴに倣ったものですが、『アニー』も子供のころに観ていたんですか?
大谷 『アニー』(1982年、ジョン・ヒューストン監督)を観たのは実は大人になってからだったんです。映画もサントラも好きですし、日本人の子が演じるミュージカルも観に行きました(笑)。Americoを始める時にロゴが欲しいと思って、“Annie”と字面が似てるから、ロゴを似せて作ろうと思ったんです。そのときにお願いしたデザイナーの竹田大純さん(現・HAUS代表)が(映画『アニー』のポスターの)“The Movie of Tomorrow”って書いてあるロゴを見つけてきて、そのキャッチコピー込みでパロディにした“The Music of Tomorrow”というコピー付きのロゴができたんです。それは偶然でした。
『Little Miss Drama』『Pet Girl』
――偶然で生まれたにせよ、その“The Music of Tomorrow”というコピーがその後の歩みを決めたようなところもあったんじゃないでしょうか。ここからはディスコグラフィーに沿って話を聞いていきたいんですが、最初に作ったのはCD-Rですよね。
大谷 はい、生まれて初めて宅録で作ったCD-Rが『Little Miss Drama』(2006年)、翌年に作ったのが『Pet Girl』(2007年)です。Americo以前にやっていたバンドのレコーディングは全部スタジオでやらせてもらっていたので、私は自分で宅録をしたことなかったんです。このときに初めてMTR(マルチトラックレコーダー)を買いに行きました。渋谷のロックオンカンパニーで、お店のお兄さんに相談して、録音、ミックス、マスタリング、CD-Rを焼くところまでできるMTRを中古で買って、まったくのゼロからはじめました。
――ジャケットなどのヴィジュアルに関しても全部自分でやったんですか?
大谷 はい、デザインも全部自分でやりました。それまでは全部を自分でディレクションすることがなかったのでとてもうれしくて。そうやって作ったCD-Rを1枚500円で手売りしたり、円盤(高円寺のレコード店、現店名「黒猫」)[*5]に委託したりすることで、お金の動きがわかるようになったのもおもしろかったです。それまでは作品を作るのに制作費がいくらかかって、それが何枚売れたのか、どれくらい回収できたのかを何も知らないでいたので。…そういえばCD-Rなのにコメントをもらったりもしました(笑)。『Little Miss Drama』は樋口さんがコメント書いてくれたんですけど…
――なんて書いたんだっけ?
大谷 それが「明日の彼方から聴こえてくるような、懐かしくスウィートな音」っていう、いま振り返ってもまったくぶれてないというか、いま書いたかのようなコメントなんですよ(笑)。それから『Pet Girl』にはロック漫筆家の安田謙一さんにこんな素敵なコメントを書いていただきました。「すべてのガールズ・ロックは『姦(かしまし)』にあこがれる。Americoの『姦(かしまし)』はバンド名とは裏腹にドメスチックな香りがする。 言うなれば、『和』の『姦』である。ハンカチ一枚敷いて聴きたくなる、トゥナイト」。
『Americo』
――そうか、俺はそんなことを書いていたか…いろいろ忘れてるな(笑)。その2枚のCD-Rを経てファーストアルバム『Americo』が出るわけだけど、『Americo』をboidからリリースすることになった経緯もうろ覚えで(笑)。
大谷 ファーストアルバムを作るときは、中村宗一郎さんのピースミュージックで録音したいということだけははっきりしていたんですけど、その後のことは何も考えてなかったんです。中村さんが引き受けてくださったので、リリースのことは考えないまま録音していたんですけど、牧野くんから樋口さんに話が伝わって、樋口さんが「特にあてがないんだったらboidでやりましょうか」って声をかけてくださったんじゃなかったかな…。だから今回の『喫茶アメリコの夜』と同じなんですよ。どんな形で公開するかは考えずに作っていたら、樋口さんがやりましょうかって声をかけてくださって。私も昨日当時のことを思い出していて、まったく同じパターンだったことに気づいてびっくりしました(笑)。
――(笑)。じゃあ録音していた時点ではまだboidが出すというのは決まってなかったんだ。もし誰からも声がかからなかったら自分で出そうと思っていたんですか?
大谷 あんまり先のことを考えてなかったんですよねぇ。いつもただ自分がやってみたいと思ったことをやっているだけなんですよ。……そもそもバンドを仕事みたいに思ったことがないですし。アルバムを録音し始めたのは曲ができたからだったと思います。それは『Little Miss Drama』と『Pet Girl』を作ったときも同じで、どちらのCD-Rもこの4曲だったらまとめられそうって思って作ったんです。その2枚を経て、さらに4曲ぐらいできたので録りたいと思ったんですね、たぶん。
――中村さんに録音してもらいたかった理由はなんでしょう?
大谷 中村さんの、何というか音が上品なところが好きで。それまでの日本のロックのレコードの音と全然ちがう、かっこいいなあと思っていたんです。ゆらゆら帝国やギターウルフの作品を聴いてそう思いました。円盤の田口さんが以前中村さんと仕事をしていたことを知っていたので、ピースミュージックで録音したいという話をしたら「すごく合うと思う」と言って中村さんの連絡先を教えてくれたんです。それで連絡をしてみたら、中村さんに「大谷くんの奥さんですか?」って言われて(笑)。それで大谷(昌功)さんに中村さんに聞かれたことを報告したら、「あ、憶えてた?」って(笑)。
――一番身近に中村さんの知り合いがいたんですね(笑)。
大谷 大谷(昌功)さんは80年代に中村さんが石原洋さんたちとやっていたWhite Heavenのセカンドアルバムのジャケット写真を撮っていたんです。と言っても特別カメラが好きだったわけではなくて、友達付き合いの延長で頼まれたみたいです。そんなご縁もあって、中村さんにはスムーズに引き受けてもらうことができました。
――ファーストアルバムは在庫が100枚を切りました。地味に売れ続けてます。
大谷 私、最近気がついたんですけど、地道な活動がけっこう得意なのかもしれないです(笑)。ファーストアルバムでは、帯の裏に湯浅学さんと安田謙一さんからいただいたコメントが、表に樋口さんが書かれたコピーが載ってるんですけど、三者三様に結構ばらばらなことが書いてあるんですよ[*6]。それはビジネス的な観点で見ればもしかしたら売りづらいっていうことになるかもしれないんですけど、私は湯浅さん、安田さん、樋口さんにさまざまに受け取っていただけたことがとても光栄でした。あと、知り合ったばかりの松永良平さんが「CDジャーナル」の推薦盤のページで取り上げてくださったのもとてもうれしかったです。それから、松永さんのお勤め先のハイファイ・レコード・ストアにも置いていただけることになったり。
『The Lady from Americo』『I ♡ Americo』
――ファーストアルバムを作ったあとに牧野くんが抜けたんでしたよね?
大谷 はい、ファーストアルバムが出てすぐに、牧野くんが(自身のバンド)NRQに専念したいということで辞めてしまって。それで、よくライヴに来てくれていた谷内栄樹さんをベースにお誘いしました。バンドは未経験だったそうなんですが、家でギターを弾いてるという話を聞いていたので、ギターが弾けるならベースも弾けるんじゃないかと思って。
――バンドもベースも経験がない谷内くんにお願いしようと思った理由は?
大谷 ライヴの後は打ち上げにも一緒に来てくれたり、谷内くんもアメリカンポップスが好きだったので。あと、やっぱり大きなポイントはバンド未経験ってことだったかもしれないです。一緒にフレッシュな気持ちでやれたらいいなと思いました。
――谷内くんが入って初めて作ったのが『The Lady from Americo』(2010年)。
大谷 はい、またCD-Rに戻ります。これは谷内くんが作った曲も入っていて、その曲もとっても評判がよかったです。このCD-Rに関しては衝撃的な思い出があるんですよ。これを出したときに私は円盤でアルバイトをはじめたばかりだったんですが、ある日女性のお客さんがこのCD-Rを買いに来てくれたんです。「これ、わたしが作ったんですよ」って言ったら、その方が「ファーストアルバムが大好きで何度も聴いていて、そのころが私の人生で一番幸せな時間だったんです」って仰ったんです。とてもびっくりしました。そんなこと言わないで、これからもっと幸せになってくださいって思いましたけど…。
――そのお客さんとはその後会うことはあったんですか?
大谷 会っていないんです。そんなふうに、私が勝手に作ったものが、知らないうちに知らない人の人生に深く関わっているっていうことを知ると、本当にびっくりします。
――Americoの音楽を聴いている時間が一番幸せだと言ってもらえるのも嬉しいけど、その後もっと幸せな日が来ていたとしても嬉しいですよね。牧野くんが抜けて谷内くんが入ったことで、大谷さんのなかで曲作りなどの面で変わっていったことはありますか?
大谷 一番大きな変化は私がギターソロを弾くことになったことです。牧野くんはパートがバリトンギターだったんです。ベースのフレーズも弾きつつ、間奏ではソロも弾いてもらってたんですよ。だから谷内くんがベースで入ってからは、私が押し出されるかたちで、ギターソロを弾くことになったんです。…でも、私はコードをジャーンと弾いているだけですごくうっとりしてしまうので、間奏で急にソロを弾くことがとてもむずかしくて(笑)。とは言えそれが必要になったので練習するようになりました。バンドの練習とは別に、ソロのところの練習のためだけに大谷(昌功)さんが一緒にスタジオに入ってくれたりして。
――ギターソロを弾かなくていいように、それができる人をバンドに入れるっていう発想はなかったんですよね?
大谷 はい、それはなかったんです。Americoは私がギターを弾いてることに意味があるんじゃないかと思っていて。だから上手な人に来てもらって自分はヴォーカルに専念するっていうことはまったく考えなかったですね。でも谷内くんが入った編成で初めてライヴをしたときは、またしても私が全然弾けなくて大失敗しました(笑)。聴いていた人はみんな口々に「良いライヴだった」って言って楽しそうに帰って行きましたけど。終わった後で落ち込みましたねぇ。でも大谷(昌功)さんに「そんなふうに自分をだめだと思うことは一緒にやっているメンバーにだめだと言うのと同じことなんだよ」って言われて。それでまたがんばろうと思いました。
――その次に出たのがまたCD-Rで『I ♡ Americo』(2011年)。少しはギターも身についてきたころでしょうか?
大谷 そうでもないんですけど、今度は逆に「しらふなのにジョニー・サンダースみたいですね」とか言ってくれるお客さんが現れるようになって(笑)。本当にAmericoのお客さんってすごい人ばっかりなんです。これにも谷内くんの曲(「バイバイボーイ」「ドーナツショップで待ち合わせ」)が入っています。あと古い友人のゲイリー芦屋さんの曲(「ローズ・バッド」)が入っていて、ほかのCD-Rは全部4曲入りなんですけど、これだけ5曲入りになっています。
――ゲイリー芦屋さんはこのCD-Rのために書き下ろしてくれたんですか?
大谷 共通の知り合いの方で、80年代にCHEESEというガールズ・ロックンロール・バンドをやっていたTAMAさんが他界されたんです。突然のことだったんですけど。…それで、ゲイリーさんから「追悼として曲を作るからAmericoで演奏してほしい」と言われました。もちろん引き受けたんですけど、私からするとすごくコードが多くて複雑な曲で(笑)。でも、出来ないとは言えないので一生懸命練習しました。ライヴでも1回だけ4人でその曲を演奏したんですけど、なぜかそのときだけすんなり弾けたんです。それもびっくりしました。ゲイリーさんは「Americoはこんなにシンプルなコード進行でこんなに良いメロディーが作れてすごいな」って言ってくれてうれしかったです。…あと、美術家の青木陵子さん、伊藤存さんにこのCD-Rを差し上げたところ、制作中に聴いてくださったというお話を聞きました(2011年の展示「9才までの境地、その頃の日射し」)。お二人の作品が大好きなので、とてもうれしかったですね。
『オールド・ファッション』
――その後、Miss Donut(ミス・ドーナツ)名義で『オールド・ファッション』(2012年)というカセットテープを出しますね。このMiss Donutというキャラクターはどこから生まれたんですか?
大谷 Miss Donutはロックンロール好きの子供だった12歳の私をイメージした人物なんです。バスター・ポインデクスターとかディーディー・キングとか、変名でソロをやっているパンクロックのスターがかっこよくて私も変名でソロを、と思ったんです(笑)。Americoでは自分なりにあたらしくロックンロールを作ってみる、ということをしていたので、Miss Donutでは自分なりに古いロックンロールのカヴァーをしてみようと思いました。一人で演奏するのは初めてのことで、大きなチャレンジでした。それで最初の頃は金髪のカツラをかぶって、道で拾ったエーストーンのリズムマシンを鳴らしながら、小さい音でエレキギターを弾いて、小さい声でロックンロールを歌ったりしていたんですけど、あるとき美学校の関連のイベントでライヴした時に、藤川公三代表が「あなたのような人を待っていた」と声をかけてくださったんですよ。うれしかったです(笑)。Miss Donutは小さい音で演奏するというのがポイントで…聴く人が小さい音に注意を向けているうちにそれがだんだん大きく聴こえるようになったらいいな、と思っていました。
――『オールド・ファッション』をカセットにしたのはどういう理由から?
大谷 これは円盤からリリースしたもので、Miss Donutのライヴを観た田口さんが「カセットテープを作らない?」って言ってくれたんです。2011年でした。そのころクララ・サーカスのライヴCD/DVDの制作をしていたので、録音をしたのはお話の1年後くらいになってしまったんですけど。
――じゃあ田口さんのなかでは最初からカセットで作りたい音楽だったんでしょうね。忘れられた音が忘れられたメディアに合うみたいな。
大谷 そうかもしれないですね。あと、田口さんは私のアマチュアっぽさを楽しんでくれていたので、そのアマチュアっぽさを物体化しようとしてくれたのかもしれないです。この古い少女漫画のようなジャケットも田口さんがディレクションしてくれて。…音源を渡してしばらく経ってから、ある日突然現物を渡されたんですよ。だから、ちょっとサプライズっぽかったんですけど(笑)。でも、思い返してみると、私は子供のころ少女漫画が大好きだったんです。70年代の少女漫画です。それで、自分でも漫画を描いて、まさに12歳の時に雑誌(「別冊マーガレット」集英社)の新人賞に入選したこともありました。だから、少女漫画のようなイラストが出てくるのはMiss Donutにぴったりでした。
――CDやレコードを出そうとするとカヴァーする曲の権利をクリアするのが難しくなると思うんですけど、今後Miss Donutとして作品をつくる予定はありますか?
大谷 そうですね、これみたいなものをCDやレコードで作ろうとは思わないです。この数年後、Miss DonutはAmericoの曲をカヴァーするバンドを始めるんですけど(笑)。…Miss Donutの名義では、ソロライヴの他にもDJをしたり、雑誌を作っていたころの『TRASH-UP!!』でコラムを書いたり、虹釜太郎さんの小説(『ラヴレスキュイジーヌ バナナ』)に付けるMix CD-Rを作ったり、ライヴのイベントでお菓子を売ったりして楽しかったです。そう言えば、今回の『喫茶アメリコの夜』もMiss Donutが企画・原案を担当しています。
『Americo graffiti』『こぐまのラルフ』
――Americo名義の活動に戻ると、2013年にミニアルバム『Americo graffiti』が発表されるんですが、このときはもうメンバーは2人だった?
大谷 はい、谷内くんが抜けて、そのあとは大谷(昌功)さんと私の2人になりました。ライヴはベースレスでやっていたんですけど、『Americo graffiti』を作ることが決まっていたので、録音のときのベースをどうしようかと考えていたときに、石原洋さんに「中村(宗一郎)がいるじゃないか」と言われて(笑)。中村さんはWhite Heavenでベースを弾いていたんです。それで、中村さんにお願いしたらやってもらえることになりました。
――エンジニアと思っていたらベースも弾いてた(笑)。このアルバムは最初アナログだけでのリリースだったんですよね?
大谷 はい、レコードのみ、ダウンロードコードなし、12インチで45回転です。レコードが作りたいし、レコードで聴いてもらいたかったので、ダウンロードコードはなくていいんです(笑)。当初は少し控えめな気持ちで7インチでと思っていたんですけど、中村さんが「7インチで33回転にすると音が悪くなるから、12インチの45回転でいいじゃないですか」って言ってくださって。このときはまだアナログブームの前だったので、この仕様はすごく驚かれました。周りのレコード好きの方たちにも喜んでもらえてうれしかったです。その一方で、レコードを作ったという行動そのものにお金を払ってくれる、その行動自体をアートとして受け取ってくれるような人もいましたね。プレイヤーがないのに買ってくれたり…。自分でレコード屋さんに営業に行ったりもして、「レコードを作ったんですけど」って言うと、「レコードですか? CDじゃなくて? じゃあ置きます」っていう反応を示してくれたり。やっぱりレコード屋さんはレコードが好きなんだな、と思いました。ジャンルやテイストの異なるレコード屋さんに置いてもらえたのもうれしくて、ロックンロールはすごいと思いました。ちなみに、このレコードはヨ・ラ・テンゴのジェームズ・マクニューさんも気に入ったという都市伝説があるんです(笑)。
――都市伝説(笑)。はっきりした話じゃないということですか?
大谷 中村さんがジェームズさんにこのレコードを渡したら、「よかった」っていうメールが返ってきたらしいんです。中村さんはひかえめな方なので、そういうことはご自分から公にしないですけど…なので「都市伝説」ですね(笑)。
――レコーディングは全部ピースミュージックで?
大谷 はい。最初にまずギターとドラムを一度に録って、その後ヴォーカルとか他の楽器を重ねていくんですけど。
――あ、中村さんは別に録ったんですね。2人の音を録るときはレコーディングエンジニアに徹して、自分は1人で録音したと。
大谷 はい、ベースは後からです。今思えば、後から合わせて録音するのはとても大変だったんじゃないでしょうか…。お仕事の合間に1人で録ってくださっていたみたいで、私たちは中村さんがベースを録音しているところは見ていないんですよ。ある日突然「これでどうですか?」って音源のファイルが送られてきて、それで決定!みたいな感じでした。
――そのときは中村さんがいたとはいえ、メンバーが2人になったことで変化はありましたか?
大谷 ますます私の社会性がなくなりましたね、家族と2人だから(笑)。でも実は谷内くんが辞めることになった時に「2人でできる」って言ってくれたのは大谷さんなんです。それで、家族だけになっしまったので、ヴィジュアルやMV(「恋のまちがい電話」)を作るときは、家族っぽいリラックス感やホームメイドな感じを大切にしてみようと思いました。バウス(シアター2)で発売記念のワンマンをやった時にはシークレットゲストで中村さんに出ていただきました。その後、このレコードも約5年かけて在庫がなくなったので、2018年にCDで再発しました。そのころCDをアナログ化する人が増えてきたところだったので、逆のことをしたらおもしろいかな、と思ったんです。CDで再発するならライナーノーツを付けるべきだと思って、松永(良平)さんに書いていただきました。「CDで再発なので、レジェンダリーな感じにしてください」って言って(笑)。
――次は『こぐまのラルフ』(2014年)。『喫茶アメリコの夜』にもラルフは出てくるんでしたっけ?
大谷 はい、でも実はこの(ジャケットの)ラルフとビデオに出てくるラルフは別のぬいぐるみなんです。ラルフは、友人の栖来ひかりさん(文筆家・台湾在住)のご主人から息子さんに受け継がれたぬいぐるみで。これはAmerico結成10周年の記念に作ったレコードだったので、世代を超えて長く愛されているラルフをテーマにさせてもらいました。この時はベースも私が弾いて、ゲストなしで録音しました。
――MVもご自宅で撮られてますよね。
大谷 はい、MVも自宅で撮って。本物のラルフは台湾にいるから、代役のぬいぐるみを買ったんですけど、その時のくまが『喫茶アメリコの夜』に出ているくまです。
『DONUT SONG BOOK』
――Miss Donut & Gentlemen名義で出した『DONUT SONG BOOK』(2015年)のバンドメンバーはどういう経緯で一緒にやることになったんですか?
大谷 『こぐまのラルフ』の発売に合わせて結成10周年記念のライヴをしたんですけど、その時にベースを弾いてくれたのが菅沼雄太さんなんです。菅沼さんは本業がドラマーで、坂本慎太郎さんのバンドやハナレグミなどに参加しているんですけど、バウスでのAmericoのライヴを観て「ベースを弾いてみたい」って言ってくれたんです。それから菅沼さんと交流ができて、菅沼さんが参加している塚本真一トリオ(ジャズのピアノトリオ)のライヴを観に行くようになったんです。それでピアノの塚本さんと、ベースで菅沼さんが入ってくれたら、ロックンロールをジャズっぽいアレンジでやることができると思いました。ジャジーなアレンジでロックンロールをやってみたいというのは大きな夢としてあったんですけど、一番のネックはピアノだったんです。ロックンロールに合うピアノを弾いてくれる人がなかなか浮かばなかったんですけど、塚本さんがすごく合いそうだと思ってお願いしました。それでまずレコーディングをするためにリハーサルを始めたんですけど、塚本さんが自分はライヴが好きなんですって仰ったので、じゃあライヴもやりましょうということで、ライヴとレコーディングの両方をやることになりました。
――『オールド・ファッション』と同じように昔のポピュラーなロックンロールをカヴァーしてもよかったと思うんですけど、Americoの曲をセルフカヴァーしたのはどうしてだったんですか?
大谷 リーバー&ストーラーをお手本にして(笑)。でも実はライヴでは美空ひばりの「ロカビリー剣法」のカヴァーなど昔の曲もやっていました。それもレコーディングしようかとも思ったんですが、カヴァー曲をやって知らない人にお金を払うより、一緒にやってくれる人に払ったほうがいいと思って、それは結局レコードには入れなかったですね。
――Americo自体がアメリカの読み違えから始まって、Miss DonutがAmericoの曲をカヴァーするというのはある意味、何重にも読み違える作業が進んでいったように思えます。
大谷 本当に何重にもですよね。でも、たまたまそうなっていってしまって(笑)。ジャズっぽいアレンジでやってみたいという気持ちはずっとあったんですけど、私がジャズヴォーカルに挑戦するみたいになるのはちょっと違う気がして、設定を面白くしたらやれるんじゃないかと思ったんですよね。それでMiss Donutに歌わせようと思ったんです。自分としては読み違えるというよりは根本に近づく、ロックンロールの成り立ちに近づいていくという気持ちだったかもしれないです。例えばエルヴィス・プレスリーが最初はジャズのミュージシャンがバックをやっていたとか、そういうことを意識して塚本さんたちにお願いした部分もあったと思います。
『Americo graffiti 2』
――そのあとがセカンドアルバム『Americo graffiti 2』(2017年)ですね。このときはメンバーが増えた?
大谷 そうです。これまでと同じように、曲ができてきて、アルバムを作りたいと思ったんですけど、(ベースを)自分でやるのは大変だし、中村さんや菅沼さんは本業がお忙しそうで。それでまた録音でベースを弾いてくれる人を、と思った時にLolaさんが浮かびました。Lolaさんは元々はギタリストなのですが、「合奏が好き」と言っていて、その頃はThe 5.6.7.8’sのYoshikoさんとのユニット(Atonettes)などにベースで参加していたんです。それでお願いをしました。最初はレコーディングのためにお誘いしたので、アルバムのクレジットにはAmericoのメンバーとしては表記されてないんですけど、その後加入してくれていまは3人組としてやってます。
――(ジャケット写真でメンバー3人が着ている)このボーダーのシャツとか、このあたりからよりはっきりアイコン的なものが見えてきた気がしたんですけど、そういうヴィジュアル的なイメージを変えようって気持ちはあったんですか?
大谷 ボーダーの服は西荻窪のSUTOAのものなんですけど、実は2010年ごろから着ていたんです。イメージを変えよう、とはっきり思ってはいなかったのですが、この頃Lolaさんの髪型に合わせて私もおかっぱにしたりしました。後から入った人に合わせるという(笑)。あと、たまたま2人とも楽器がDanelectroだったので、それでかなりおそろいな感じになりましたね。Lolaさんとはライフスタイルも似ていて、普段静かに暮らしている感じの人なんです。それで、録音やライヴを重ねていくうちに、加わってもらえることになりました。家族2人でやってるのも楽しかったですけど、家族だけのところにメンバーとして入ってもらえたっていうのはすごいなあ、と思っています。
――このあとしばらく音楽活動を休止して、瞑想を勉強するためにタイに行ってたんですよね?
大谷 はい、超越瞑想[*7]の教師になる勉強のために、2019年の9月から半年ほど。インド発祥の瞑想法なんですけど、教師養成コースは毎年タイで開催されていて、いろいろな国の人たちと一緒に勉強してきました。超越瞑想はすごくシンプルな瞑想法で、誰でも簡単にマスターできるんですけど、その瞑想法を教えるためのテクニックを身につけるためには半年間のコースを受ける必要があるんです。
――瞑想にはいつごろから興味があったんですか?
大谷 洋楽好きの母がビートルズも好きで、それでビートルズがインドに瞑想しに行ったっていうことは子供の頃からなんとなく知っていたんですけど、自分が始めたのは2011年の5月です。なので、ちょうど10年になります。
――それは東日本大震災がきっかけで?
大谷 はい、そのとおりです。私はAmericoを始める前に住んでいたアパートが火事になったことがあって。その時、何かひとつ違っていたら、生きてなかったかもしれないって思ったんです。そして震災のときにまたそういう気持ちになって、ちょっとでも興味があることはやってみようって思いました。
――曲作りや音楽活動にも影響があったりしますか? Americoの音自体は別世界のちょっとずれた場所の音楽だと思うんだけど、その世界が固まっているというわけでもないのかな。
大谷 超越瞑想は、創造性をアップする効果があるといわれていて、海外ではミュージシャンや映画監督に人気があるんですけど、私自身もアイデアが増したり、それを形にすることが容易になったり、ものを作るうえでとても役立っていると感じています。2013年から『Americo graffiti 2』まで、ほぼ年に1度のペースでレコードを作ったんですけど、そういうスムーズな流れが生まれたのは、瞑想をするようになってからだと思っています。曲作りやMVのアイデア、何かを形にしたいとか、誰かに何かをお願いしたいとか、そうしたことが良いタイミングで実現できることが重なりました。曲に関しては、小さいお子さんに気に入ってもらえることが増えてきてうれしかったです。『Americo graffiti 2』に対しても「このアルバムをかけると子供が踊る」とか「子供がギターを弾く真似をする」といったお話を何度か聞いています。あ、それからこのアルバムはザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトさんが聴いてくださったという都市伝説もあります(笑)。
――Americoが演奏するロックンロールは50~ 60年代にかけて盛り上がったジャンルで、もう60~70年前の出来事です。そこを基盤にしつつ新たな、あるいは読み違えとしてのロックンロールを15年も続けているのは非常にエネルギーがいることではないかと思います。その15年の間にロックンロールとの関わり方に何か変化はあったでしょうか? また『Americo graffiti 2』の中に、そんな15年の関係がどのような形で表れているか、自分で改めてこの音を聴いて思うことはありますか?
大谷 ロックンロールとの関わり方は、変わっていないですね。エネルギーもこちらがもらっているし(笑)。『Americo graffiti 2』は、12歳の自分がギターを持ったらいきなり曲が生まれてアルバムができた、みたいな感じのものになったかな、と思っていて…。それまでは実際には長い時間があって、少しは大変なこともあったはずなんですけど、何もなかったみたいになって、12歳の自分と今の自分がひとつになっている感じなんです。
【註】
*1 The Rest of Life(1993~2003)は西岡由美子(vo & g)、岡田裕二(g)、菊地雅晃(cb)、大谷昌功(ds)、岸野雄一(sampler)からなるバンド。『Home Made Hell』(Hot-cha)『Live in Helsinki』(OZ DISC)などの作品を発表。「救いようのないエクスタシーとスウィートネスがここにはある」(松山晋也)。「ひかえめな歌。けれど、強い言葉。身体があることを忘れさせてくれる心地良い音楽。大音量でどうぞ」(Phew)
*2 1982年8月7日に横浜スタジアムで行われたジョイントコンサート。後日、同コンサートの模様が収録されたライヴ盤『THE DAY OF R&B』もRCサクセション名義でリリースされている
*3 クララ・サーカス(1984〜1991)はユミル(vo)、ミンコ(vin)、トモコ(pf)からなるガールズバンド。主な作品/参加作品は『エンジェル・オーファン』(ナゴムレコード)『誓い空しく』(V.A /京浜兄弟社)など。代表曲「ルンペンとラプンツェル」は知久寿焼のカヴァーでも知られる。2011年には中村宗一郎のマスタリングによるライヴCD/DVD『Klara Circus LIVE 1985-1991』(Pedal Records)をリリース。「メンバー全員がまだ高校生だったが、驚くべきことにクララ・サーカスはすでに自分たちの”音”そして”言葉”を持っていた。(略)筆者が最初の一撃でクララ・サーカスのファンになったことは言うまでもない。」(野田努)
*4 M.A.G.O(2000〜)はtomio(vo & g) & HA*(vo & key & perc)による女子二人組ユニット。compare notesより1stアルバムをリリース以降、ソニック・ユース、レッド・クレイオラ、レインコーツ、ジャド・フェアとの共演でも知られる
*5 田口史人が2003年に開店したレコード店。中古レコードや自主制作のCD/レコード/カセット/書籍を多数取り扱い、店内でライヴやトークイベントも開催。現在は「黒猫」という店名に変更され、高円寺店のほか長野県伊那市に2店舗ある
*6 『Americo』の帯に掲載されたコピーとコメントは以下のとおり。
「3コードの懐かしいロックンロールは『明日の音楽』でもある。スウィートでどこか物狂おしいその歌は、気がつくと昨日と明日がどこまでも不透明に混じり合うマーブルカラーの世界へと、私たちを連れて行く。そこはアメリカではなくアメリコ」(樋口によるコピー)
「Americoはおまえらなんかにわかられてたまるか的パイ投げテロである。しかしAmericoはマーク・ボランの隣にいる。グラマラスな金魚にちょっかいを出す猫のグラム・ロックでもあるからである」(湯浅学)
「ドーナツの穴からエンド・オブ・ザ・センチュリーを覗けば。砂に書いた文字化けラブレター。絵に描いたモチとロックンロール。Americoは、食べられます」(安田謙一)
*7 古代インドの知識体系・ヴェーダに由来する瞑想法。心の最も精妙な領域を超越することを特徴としており、ビートルズ、デヴィッド・リンチ、クリント・イーストウッド、マーティン・スコセッシなどが実践を公言している。
Americo(アメリコ)
2004年に結成されたロックンロール・バンド。現在のメンバーは大谷由美子(vo & g)、Lola(b)、大谷昌功(ds)の3人。本サイトにて無料ロックンロール動画『喫茶アメリコの夜』が配信中。インタビュー中に登場する作品のうち『Americo』 (CD)、『DONUT SONG BOOK』(7″ Vinyl)、『Americo graffiti』(CD)、『Americo graffiti 2』(CD)は公式通販サイトでも発売中。